言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.288 8月21日、26年を経て

2019年08月21日

 今年の7月は、下旬になってからの梅雨明け直前まで、気温も低く、雨模様の日がつづいていた。26年ぶりの冷夏か、などの報道も、目についたものだった。

その26年前、1993年の夏を、私は忘れることがない。その年の8月21日に、藤山一郎先生がお亡くなりになったからである。

時代の切り分け方にもよるが、藤山先生は、間違いなく昭和最大の歌い手であった。若い方たちのために顕著な例を挙げると、1992年5月に、国民栄誉賞をお受けになっている。当時スポーツ選手以外で、存命中に国民栄誉賞を受賞した人はなかった(その後も2018年2月の羽生善治氏に至るまで、生前受賞者はスポーツ界の選手、元選手のみである)。

昭和前期のそうそうたる歌い手の方たちが相次いで世を去った1980年代、最高峰の藤山先生はいつもお元気で、NHKの紅白歌合戦では、ラストの『蛍の光』の指揮をなさっていた。それゆえ私は「藤山一郎という太陽が私の上から消えてしまうことはあり得ないという思い」(『わが夢わが歌』所収「そして藤山先生へ」)を抱いていた。しかし避けることのできないお別れの時がついにやって来たのが、1993年8月21日だったのである。

 藤山先生は、お亡くなりになる数日前、奥様に「ピアノをダーンとたたいてぴたっと止まるような、そんな死に方をしたい。ぐずぐずするのはいやだ」という意味のことをおっしゃったのだと聞く。そのお言葉通りの、まことにあざやかなご最期だったのだが、私は文字通り太陽を失ったような衝撃と悲しみに暮れ、名古屋から東京目黒区の先生のご自宅まで弔問に伺った。そして今、あの夏のことをふり返るとき、コメの作況指数が74にまで落ち込んだ(平年を100とするもの)記録的な冷夏は、藤山一郎という巨星を送るための異変だったのではないかと思えてならない。

 私自身は、今年の8月、6日の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式からこのかた、今の時代を生きる若者たちのためにこそ、私が学びえたものを伝えて行かなければならないという思いを強くしている。その意味も含めて、今日の昼休みには『青い山脈』を歌わせていただいたが、3番の歌詞の「かがやく嶺の/なつかしさ 見れば涙が/またにじむ」の言葉と、歌っていらした藤山先生のお顔、お声が脳裏に浮かんで、心に迫るものを感じた。藤山一郎先生という大きな明るい山脈が与えて下さったものを、能(あと)う限り伝えて行きたいと願う、この一日である。


令和元年(2019年)8月21日
小田原漂情




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Vol.287 若者たちのためにこそ

2019年08月15日

 戦後74年となった今年の全国戦没者追悼式を視聴しながら、正午に黙禱し、この文章を書き起こしている。天皇陛下のゆったりとした、かつ明瞭なお言葉に、「世界の平和と我が国の一層の発展を」祈る気持ちになった人も多いことだろう。 

 私ごとだが、7月の下旬に叔父が他界した。89歳だった。神奈川県で隣り町に住んでいたため、大学を卒業するまではよく従兄弟たちと双方の家を行き来して、叔父にもかわいがってもらったのだが、その叔父が往時、「自分は特攻隊員になる覚悟を決めていた」と話してくれたことがある。詳細を聞いておくべきであったと悔やまれる。

 叔父は千葉県の出身で、旧制安房中学校に通っていた。昭和20年(1945年)には、満15歳から16歳となる年齢だったはずだ。本日参照させていただいた「特定非営利活動法人 安房文化遺産フォーラム(旧名称:南房総文化財・戦跡保存フォーラム)」による「戦跡からみる戦時下の館山≪(1999年)豊津会例会報告レポート/報告「戦跡からみる戦時下の館山」≪豊津会例会(1999年)≫」によると、同年5月31日には館山市でも国民義勇隊が結成されたとある。そして6月22日には義勇兵役法が施行され、「15歳以上〜60歳以下の男子および、17歳以上〜40歳以下の女子に義勇兵役を課し、必要に応じて国民義勇戦闘隊に編入できることとした(第2条)。年齢制限外の者も志願することができた(第3条)。」(ウィキペディアより引用)という、「本土決戦」にそなえた抜き差しならない状況に至っていたようだ。そんな状況下、中学4年生だったと思われる叔父も、かつて幼い私に語ってくれた決意を固めていたのだろう。房総半島からは、「震洋」という「モーターボートに爆薬を装備して敵艦に激突させる」(引用 同)特攻兵器が出撃していた。叔父に昔日聞いた話はその「震洋」の内容と一致していたし、先に引用した「安房文化遺産フォーラム」のレポートに記されている安房地方の切迫した状況の中で、当時の若者には避けることのありえない道だったのだろうか。

 叔父は幸い、出撃には至ることなく、戦後長寿を全うしたが、一時は死を覚悟した青春期を送ったのだ。一昨年の本稿では8月14日の光海軍工廠空襲(山口県)で亡くなった女学校3年生の女性のことを書いたが、現在私が塾で指導する生徒と同じ年代の方たちが、青春らしい青春を知ることもなく、尊い命を失ったのが、遠い世界のことではない、わが国の過去の現実なのである。これからの長い世を生きる若者たちのためにこそ、私自身が知り得た過去を彼らに伝えて行くことを、従前以上に自らに課すことを、今日の私の決意として記しておく。


令和元年(2019年)8月15日
小田原漂情


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Vol.286 自分にできること、つづけなければならないこと

2019年08月09日

 6日の広島市長の平和宣言が短歌作品を取り上げたのにつづいて、今日9日の長崎市長の平和宣言では、被爆時に17歳だったという女性の詩作品が、田上富久市長の「目を閉じて聴いてください。」という呼びかけにつづけて読み上げられた。詩の全文を引用するのではこの稿の位置が狂うから、私が特に注目した箇所を二か所、引用させていただきたい。

         (前略)

 ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった

         (中略)

 だけど……

 このことだけは忘れてはならない

 このことだけはくり返してはならない

 どんなことがあっても……

 「ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった」の一行は、それだけが独立した連とされている。あくまで作品を読み解く意から記述するが、「ケロイドだけを残して」と表現したのは、それが作者自身の身の上のことだったからだろう。私がこれまでに見聞した資料や作品に限っても、うら若い女性が外見に大きな傷を負ったという例は多くあり、忘れられないことなのだが、この詩の作者も、17歳の身体に一生消えないケロイドを残された。つづいて田上市長は「自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験をさせてはならない、という強い思いが、そこにはあります」と、平和宣言で述べている。

 すでに平均年齢が82歳を超えている、被爆体験を持つ方々が、自らの痛みを訴えるばかりでなく、「今後、世界の誰にも同じ苦しみを経験させたくない」と語られる言葉にこそ、原爆の惨禍も戦争も知らずに生きて来られたわれわれ戦後の日本人が、どのような論理よりも深く学ぶべきものがあるのではないか。

 そして、「このことだけは忘れてはならない/このことだけはくり返してはならない/どんなことがあっても……」という訴えが、「くり返してはならない」というその叫びが、一部の人間にしか届かないというふうに、われわれがあきらめてしまうことこそが、もっとも忌むべきことであろう。

 一人一人の力は小さくとも、語りつづけ、願いつづけること。むろん私には、書きつづけることがそれに加わる。田上市長の平和宣言は、戦争が何をもたらしたのかを知ることが、平和をつくる大切な第一歩であり、人の痛みがわかることの大切さを子どもたちに伝えつづけることが、子どもたちの心に平和の種を植えることになる、と語られた。さらに次の一節を引かせていただき、令和元年8月9日の拙稿を結びとしたい。

 <平和のためにできることはたくさんあります。あきらめずに、そして無関心にならずに、地道に「平和の文化」を育て続けましょう。そして、核兵器はいらない、と声を上げましょう。それは、小さな私たち一人ひとりにできる大きな役割だと思います。>(令和元年8月9日の長崎市長による平和宣言より引用)


令和元年(2019年)8月9日
小田原漂情

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