言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.290 私の生きる道

2019年10月26日

 10月26日、灰田勝彦先生のご命日にお墓参りをするようになって、十数年になる。名古屋から、先生の熱烈なファンの方が、「足腰が丈夫なうちに灰田家の墓参をしたい」と上京され、ご案内したのが最初だった。2006年のことだったと思う。

 その方Hさんは、私が27年前に『遠い道、竝に灰田先生』を出版した際新聞広告を見て購入して下さり、若い私を気に入って下さって、二度ほど名古屋・栄のご懇意のお店をご紹介下さった。そして私がそれまで知らなかった灰田先生の貴重な資料や音源なども、惜しみなく与えて下さったのだった。この一、二年、その頃のことを思うたびに考えるのだが、おそらく現在の私の年齢が、当時のHさんのお年に近づいていることだろう。

 Hさんのおかげで、私は毎年灰田先生のご命日にお墓参りをさせていただくことができ、先生が亡くなられてからの37年間の自分自身の来し方を、灰田先生のご墓前で思い返すことができている。あの年(2006年)、Hさんが私に声をかけて下さらなかったら、私がいま現在、灰田先生のお墓参りを欠かさないという、私自身のアイデンティティの一部と言ってもいい営みを、わが身のこととすることはできなかった。毎年この10月に、灰田勝彦先生、有紀彦先生への尽きることのない感謝の思いを述べることは当然だが、私に灰田ファンとしての確固たる立ち位置をつくって下さったHさんへの感謝をも、改めて深く胸に刻んだ今日、令和元年の10月26日であった。

 今日はお墓参りをしながら、37年ぶんの感謝の思いを申し上げた。「お蔭様で三十七年間、正しく生きて来ることができました」と。そして今日YouTubeに上げさせていただいた、有紀彦先生のご作曲で昭和22年に勝彦先生が歌われた『あの日あの時』を、少しく歌わせていただいた次第である。毎年、ご墓前にうかがうたびに、灰田勝彦先生が私に与えて下さった「正しく生きる」ことのありがたさを、深く心に刻み直すのが、私のアイデンティティであり、つとめである。そして年ごとに誓い直す「正しく生きることの正しさを、子どもたちに伝えつづける」私の使命を、言葉として刻み、みずから負い直すことが、私の生きる道なのである。

https://www.youtube.com/watch?v=EkmP0pVhtPA あの日あの時  小田原漂情
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Vol.289 表現者の魂を思う‐令和元年10月16日

2019年10月16日

 今日10月16日は、灰田有紀彦先生のご命日である。先生が作曲なさった『森の小径』『鈴懸の径』などの稀有にして美しいメロディーが多くの日本人のこころをなぐさめ、私も青春時代から大いに救われて来たということは、例年語っている通りである。

 今年は、言問学舎で国語教材の出版という新しい道に踏み出した。今月末の出来をめざして、夏休み明けから新刊の準備を進めて来たが、ちょうど今日、その原稿がすべて出来上がったのである。先週末は台風への備えもあり、もくろみよりわずかに遅れたが、何とか今月中には製品がそろい、販売を開始できる見通しが立った。

 原稿をそろえられる見通しがついたのは、昨夜である。そして今日、生徒が登塾して来るまで作業を進めて、公に発表できる段取りをつけられた(本稿が、公表第一回であるが)。段取りのついたのは今日の午後だが、原稿があらかたできて、その見通しが立ったのは昨夜日付が変わった頃、すなわち10月16日になってすぐのことである。

 その時、私は有紀彦先生のご命日に、新刊の準備が整ったご縁を思った。無論、今回の新刊は文語文法(古文の文法)に関するもので、厳密に言えば私の創作物、表現上の作物に属するものではない。しかし言問学舎で国語を教えること、そしてその精神と技術を多くの方たちに広めて行くことは、創業以来私が全力を注いで来た道であり、小田原漂情の生きる道をあらわすものであることは疑いない。その意味で、私はこの10月16日に新刊の準備を終えたことが、灰田有紀彦先生のお導きであり、ご縁なのではないかと強く感じた次第である。

 まもなく、日付がまた変わろうとしている。私は今日一日、灰田有紀彦先生の表現者の魂に導いていただきながら、行動していたように思えてならない。

令和元年10月16日
小田原漂情
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Vol.288 8月21日、26年を経て

2019年08月21日

 今年の7月は、下旬になってからの梅雨明け直前まで、気温も低く、雨模様の日がつづいていた。26年ぶりの冷夏か、などの報道も、目についたものだった。

その26年前、1993年の夏を、私は忘れることがない。その年の8月21日に、藤山一郎先生がお亡くなりになったからである。

時代の切り分け方にもよるが、藤山先生は、間違いなく昭和最大の歌い手であった。若い方たちのために顕著な例を挙げると、1992年5月に、国民栄誉賞をお受けになっている。当時スポーツ選手以外で、存命中に国民栄誉賞を受賞した人はなかった(その後も2018年2月の羽生善治氏に至るまで、生前受賞者はスポーツ界の選手、元選手のみである)。

昭和前期のそうそうたる歌い手の方たちが相次いで世を去った1980年代、最高峰の藤山先生はいつもお元気で、NHKの紅白歌合戦では、ラストの『蛍の光』の指揮をなさっていた。それゆえ私は「藤山一郎という太陽が私の上から消えてしまうことはあり得ないという思い」(『わが夢わが歌』所収「そして藤山先生へ」)を抱いていた。しかし避けることのできないお別れの時がついにやって来たのが、1993年8月21日だったのである。

 藤山先生は、お亡くなりになる数日前、奥様に「ピアノをダーンとたたいてぴたっと止まるような、そんな死に方をしたい。ぐずぐずするのはいやだ」という意味のことをおっしゃったのだと聞く。そのお言葉通りの、まことにあざやかなご最期だったのだが、私は文字通り太陽を失ったような衝撃と悲しみに暮れ、名古屋から東京目黒区の先生のご自宅まで弔問に伺った。そして今、あの夏のことをふり返るとき、コメの作況指数が74にまで落ち込んだ(平年を100とするもの)記録的な冷夏は、藤山一郎という巨星を送るための異変だったのではないかと思えてならない。

 私自身は、今年の8月、6日の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式からこのかた、今の時代を生きる若者たちのためにこそ、私が学びえたものを伝えて行かなければならないという思いを強くしている。その意味も含めて、今日の昼休みには『青い山脈』を歌わせていただいたが、3番の歌詞の「かがやく嶺の/なつかしさ 見れば涙が/またにじむ」の言葉と、歌っていらした藤山先生のお顔、お声が脳裏に浮かんで、心に迫るものを感じた。藤山一郎先生という大きな明るい山脈が与えて下さったものを、能(あと)う限り伝えて行きたいと願う、この一日である。


令和元年(2019年)8月21日
小田原漂情




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