言問ねこ塾長日記

言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。

Vol.338 教育機関の冥利と責務‐今回の漢検実施に際して

2024年11月16日

 昨日11月15日は、2024年度第2回漢検(準会場言問学舎で10月25日に実施)のWeb合格発表日であった。今回は近年になく18名の申し込みがあり(1名欠席で17名受検)、多くの受検者が合格したが、その中に、二十年以上検定をつづけて来た歩みにあって特筆すべき、うれしい合格があった。

 群馬県北部から7級(小学5年生相当)を受けに来てくれた小学2年生の子が、190点以上の高得点で、みごとに合格したのである。電話で問い合わせがあった時からずっと気にかかっていたので、いつも以上にこの日の合格発表を待っていて、昨日出社後、いの一番に確認した次第だった。合格確認後、すぐその子のお母さんに連絡したことは言うまでもない。

 その子が都内文京区まで漢検を受けに来てくれたのには、教育関係者として何とも表現しがたい事情があった。その子は、当初は通っている小学校で漢検が実施されるというので申し込み、一生懸命勉強していたのだという。ところが学校の方が、申し込み者が検定の最少実施人員に満たなかったため、実施を見送ることになってしまった。頑張って勉強したのに学校で受けられないこととなり、がっかりしているその子のために、親御さんが受検できる会場をさがしまわって、ネットで準会場言問学舎を見つけて下さったようだ。

 何とも表現しがたい事情、というのは、こういうことだ。各種検定には、「〇〇名から申し込み可」という最低実施人員のきまりがある。現在、漢検と英検は10名で、数検は3名だ。募集ツアーの最少催行人数のようなものだから、これはある意味必然的なことだろう。その前提で募集をしている学校が、「人数に満たなかったから実施見送り」の判断となるのも、やむを得ない。言問学舎では、1人でも受け付けたら必ず実施、と決めているから、本当に集客力が及ばなかった昔は学生アルバイト講師に無料で受けてもらうなど、不足の検定料は塾か私の持ち出しで実施したこともあるけれど、公立学校ではそうもいくまい。

 ただかわいそうなのは、子どもである。一生懸命勉強したのに、自分以外の原因、それも学校で受検者が足りないから試験そのものが行なわれないなど、本人にとっては理不尽以外の何ものでもないだろう。ご両親もお子さんの気持ちが痛いほどわかるから、わざわざ東京まで連れてきて下さることを決めたに違いない。CBTもあるとはいえ、中学生ならまだしも、小学校低学年の子ではPCを使って受検すること自体、漢字の勉強、国語の勉強として筋が違うように思われる。受検上の不利もあるだろう(そのためか、漢検では7級からがCBTの対象となっている)。

 言問学舎としては、そんなにも一生懸命漢字を勉強し、受検しようとしているお子さんの役に立てるのは、教育機関冥利に尽きる、うれしい話であった。だから時間など可能な限りの便宜を図り(7級はその子が間に合う時間に設定し、他の受検者に合わせてもらった)、歓迎した経緯がある。それゆえ特筆すべき、うれしい合格であったわけだが、各地で学校の生徒数が減少し、学校であってさえ10人の受検希望者があつまらないとは、良いとか悪いとかの問題でないだけに、本当に何と言っていいかわからない、複雑な心境だった。大都市部なら外部受検可能な準会場に行けるかも知れないが、そもそも準会場自体が存在しない地域も多いだろう(学校だけが、その可能性を持っている)。

 せめてもこうした事象に立ち会った教育者の責務として、漢検協会に電話して、来年以降、小学校の準会場については3名でも5名でも受検できるよう配慮していただくことはできないかと、お願いをした次第である。もちろん私どものできることにも限りがあるが、教育機関の一員として、困っているお子さんたちのためには今後とも能う限り力を注ぎたい。
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Vol.337 灰田メロディーは永遠に 2〜ご命日に「アロハ東京」を

2024年10月26日

 今日10月26日は、灰田勝彦先生のご命日である。お亡くなりになったのは昭和57(1982)年、私が大学2年生の時だったから、今年で42年を数えることとなった。先日、16日の有紀彦先生のご命日に、「灰田メロディーは永遠に」を書かせていただいたので、今日はその有紀彦先生ご作曲の灰田メロディーの傑作「アロハ東京」(昭和25年/1950年。門田ゆたか作詞)を歌わせていただいた。

 旧著で恐縮だが、先般もご紹介した拙著『遠い道、竝に灰田先生』の中で「アロハ東京」を紹介している稿の一部を引用させていただく。

 〈 (浜松町界隈の第一京浜と東京タワーについてふれた文章につづけて)この歌が作られた時、無論東京タワーはまだ出来ていないが、それはさておき、東京の中でも浜松町あたりの第一京浜付近の感じがもっともこの歌の雰囲気に合っていると思う。一帯にときおり訪れる不思議な静寂が、ものがなしいスチールギターの伴奏を呼びおこすのかも知れない。ハワイアンを日本に持ちこんだ灰田先生ご兄弟には、日本の流行歌に新味を加えた通称「ハワイアン流行歌」の諸作品があるが(先述「ただ一つの花」他)、この歌はその代表的なもののひとつである。昭和二十五年(一九五〇)一月。〉 注)引用文中、(先述「ただ一つの花」他)の「先述」は同書の中で「アロハ東京」の前に「ただ一つの花」を紹介していることを示しているが、YouTubeでも、昨年この「ただ一つの花」を歌い、公開している。
           『遠い道、竝に灰田先生』小田原漂情著 1992年10月26日画文堂版より引用

 ハワイアン風の曲であるから、哀愁を帯びたメロディーである。オリジナル原盤ではスチールギターの伴奏が印象的だ。収録されているLPレコード(ビクター創業50周年記念 オリジナル原版による懐しの歌声シリーズ)に記載はないものの、当時の状況から考えて、そのスチールギターの奏者は有紀彦先生だろうと思われる。私の年代では、有紀彦先生がステージで演奏なさっているお姿を拝見したのは、勝彦先生の特集のような番組などのわずかな機会に過ぎないが、オリジナル原版から採られたレコードやCDでは、スチールギターの魅力を知り尽くしておられたのであろうすばらしい音色を、たくさん聞かせていただいている。「灰田メロディー」は、有紀彦先生の旋律、勝彦先生の歌声、さらに有紀彦先生のスチールギターがそろってこそ、最高の魅力を発揮するのではないだろうか。私が二十歳の頃から愛してやまない「森の小径」も、前奏の有紀彦先生のスチールギターから、甘い夢の世界に引きこまれるのである。

 「灰田先生の歌を覚えたい、歌いたい」ということが、しるべを持たない若者だった私の人生のしるべとなり、「人間性の明るさ」というかけがえのないものまでもたらしていただいたということを、前掲書で述べているし、本稿でも折にふれ、語らせていただいた。しかしもっと端的に、美しい灰田メロディーと出会い、一心に歌わせていただいた私の人生そのものが、有紀彦先生、勝彦先生の大きな大きな恵みに支えられた、両先生の音楽の賜物だったのではないかと思えてくる。なお、先日有紀彦先生のお嬢様と電話でお話しさせていただく機会があり、「アロハ東京」を歌わせていただくことを申し上げたところ、お喜び下さった。

 そのささやかなご恩返しとして、「灰田メロディーは永遠に」ということを、これからもずっと歌いつづけ、語りつづける一人でありつづけたい。動画の中でも語らせていただいたが、そのことを、今年、令和6(2024)年の誓いとして、筆をおく。

https://www.youtube.com/watch?v=ZJZwcEz_ZyQ アロハ東京 小田原漂情歌


令和6(2024)年10月26日
小田原漂情
posted by hyojo at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.336 灰田メロディーは永遠に

2024年10月16日

 タイトルに「灰田メロディー」と書いたので、僭越ではあるが少々解説をさせていただく。38年前の今日、1986年(昭和61年)10月16日に、灰田有紀彦先生がお亡くなりになった。ハワイのご出身で、日本にハワイアンを伝えて下さった「ハワイアンの父」である。スチールギターなどハワイアンの演奏者であると同時に、不世出の作曲家であり、「鈴懸の径」、「森の小径」などの美しい曲を、たくさんのこして下さっている。現在もハワイアンにかかわっている人なら、必ずご存じであろう。なお戦前は「灰田晴彦」として活躍なさっていた。

 有紀彦先生が亡くなられてすでに38年だから、順を追って説明したいと思う。先に挙げた「鈴懸の径」(1942年)、「森の小径」(1940年)は、日本の流行歌で(いずれも灰田有紀彦作曲、佐伯孝夫作詞)、歌われたのは灰田勝彦先生である。有紀彦先生が2歳年長のご兄弟だ。お亡くなりになったのは1982(昭和57)年10月26日、有紀彦先生の4年前だった。今年で42年になる。

 当時私は大学2年生だったが、灰田勝彦先生のご逝去に、大きな衝撃を受けた。「新雪」などの明るい歌に人生のしるべを見つけようと考えはじめていた、その矢先のことだったからである。それから灰田先生の歌を次々に練習して覚え、「アルプスの牧場」のヨーデル(ファルセット)は2ヶ月かかって何とか習得した。まさに人生の大きな転換点、収穫となった、大きなお導きであった。

 勝彦先生が亡くなられた翌月、立教大学の構内に「鈴懸の径」の歌碑が建立された。除幕式には勝彦先生が臨まれるはずであったが、思いもかけぬ早いご逝去となったため、お兄様の有紀彦先生が代わりを務められたニュースを、当時のファンは涙とともに拝見したものである。

 10年後の1992(平成4)年、10月に、個人ベースの出版ではあるが、私は灰田勝彦先生への感謝の思いをつづったエッセイ集『遠い道、竝に灰田先生』を上梓した。本づくりに先がけ、赤坂の「白石信とナレオ・ハワイアンズの店タパ・ルーム」にお邪魔して白石さんにいろいろとお教えを乞うていたが、 私の願いを高く評価して下さった白石さんは、10月26日にタパ・ルームを会場として、灰田先生の没後十年の集いと同書の出版記念会をあわせた会を開いて下さった。その日の感激は、32年経った今でも忘れることがない。かつて有紀彦先生、勝彦先生と親しく交わっていらした方々がお集まり下さったのだが、モアナグリークラブの草創期からのメンバーで「ただ一つの花」ほか多くの歌の歌詞を書かれた永田哲夫先生もご臨席下さった。また、勝彦先生の奥様のフローレンス君子夫人と、有紀彦先生のお嬢様も、おみ足をお運び下さったのである。そのような方々の前で「アルプスの牧場」や「新雪」などを歌わせていただいた当時29歳の私は、まさに天にも上るような心地であった。

遠い道.JPG

 あれから、すでに32年の月日が流れ去っている。私自身も六十歳を過ぎた。往時は「若いのに灰田さんのことをよく知っている」と言われたものだが、今や自分も「語り伝える年代」に入っているのだ。しかし、有紀彦先生がお作りになり、勝彦先生がお歌いになった「灰田メロディー」を聴き、歌っていると、この美しい音楽は、永遠に聴き継がれ、歌い継がれていくものであることを確信する。冒頭「灰田メロディー」の解説と書き出したが、今日、勝彦先生の歌われた曲を「灰田メロディー」ととらえている人もいるかも知れないと考えてのことである。しかしやはり、他の「〇〇メロディー」とくらべて考えると、「灰田メロディー」とは、灰田有紀彦先生の作曲なさった曲について称するものであるということを、記しておきたい。
 
 先日、有紀彦先生のお嬢様と、お電話ですこしお話しさせていただいた。そして「灰田メロディー」を、すなわち有紀彦先生、勝彦先生に賜わった生きるしるべを末長く伝えつづけて行くことを、改めて深く心に誓った次第である。

https://www.youtube.com/watch?v=ZJZwcEz_ZyQ アロハ東京 小田原漂情歌 ★10月26日、追加

令和6(2024)年10月16日
小田原漂情
posted by hyojo at 17:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記