言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.271 受け継いだものを

2017年08月21日

 今年は雨が多い。局地的なゲリラ豪雨が多く(先日は住まいのある品川区でも雹が降った)、出水に見舞われた地域では、死者・行方不明者をはじめ大きな被害が出ているほか、東北地方を中心に米の作柄を危ぶむ声も聞かれはじめた。

 24年前、1993年の夏も、今夏のようなゲリラ豪雨などはなかったが、長雨がつづき気温も低く、米の作柄は各地で平年を大きく下回ったと記憶する。

 その1993年の今日、8月21日に、藤山一郎先生が亡くなられた。来年で四半世紀にもなろうという今日、先生のことをすこしご紹介させていただくのもよいかと思う。

 藤山一郎先生は、東京日本橋のご出身である。東京音楽学校(現・東京芸術大学)に学ばれ、クラシックの声楽家として将来を嘱望されていたが、昭和6年(1931年)に学費稼ぎのアルバイトのつもりで吹き込んだレコード『酒は涙か溜息か』が大ヒットし、一躍スター歌手となられた。しかし、後にこのアルバイトが学校当局の知るところとなり、あわや放校処分というピンチに陥ったが、日ごろの勤勉、成績優良と、アルバイトも家業を助ける目的だったことなどから、比較的軽い停学処分で済まされた。

 卒業後は、流行歌手として文字通り第一線を走りつづけられた。歌われた歌は千三百曲にも及び、『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』『青春日記』などの抒情的な歌謡から、『丘を越えて』『キャンプ小唄』や戦後の『青い山脈』『丘は花ざかり』等々の明るい歌など、幅広い流行歌群を残して下さった。戦争中は、『燃ゆる大空』などの戦時歌謡も数多く歌われたが、戦後の昭和24年(1949年)には、『長崎の鐘』(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)を歌われ、最初のレコーディングの時は、38度の熱を押して吹込みをされたというエピソードが残っている。

 藤山先生は、私が敬愛してやまない「先生」であるが、本日とくにお伝えしたいことが、二つある。一つはまず、前段で述べた戦時歌謡の吹込みに関して、「国費で勉強させていただいたから、国にお返しするのは当然のつとめだと考えた」と、先生ご自身が述べられたことである。国立の音楽学校で学んだこと、すなわち「国費で学んだ」ことであるという、「公」に対する意識の高さは、現代の社会が忘れてしまいがちなものでないだろうか。

 また、これはいつもお話ししているように思うが、先生の「言葉を正しく使う」というご姿勢には、張りつめた厳しさが通っていて、言葉とともに生きる私にも、深い精神性を教えて下さった。今後もより一層、深く教えを賜り、受け継がせていただいたものを、守り、発展させて行くことを誓う、今日のこの日である。

2017年8月21日
小田原漂情
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Vol.270 忘れず、語りつづけることを

2017年08月15日

 今日は正午に、全国戦没者追悼式を見ながら黙禱し、その後出社した。玉音放送から72年、日本が平和であることを、かつてのように声高には述べかねる現況の下、だからこそ、より真剣に平和を願うために、考えなければならないことは多い。

 ポツダム宣言が出されてから、玉音放送によって日本が戦争の体制を終わりとするまで、20日ほどの時間が経過している。この間8月6日に広島、そして9日に長崎への原爆投下があり、8日にソ連の参戦があった。

 長崎への原爆投下の後、10日以降も、各地が空襲に遭っている。14日には、大阪などのほか、山口県岩国市と光市も空襲を受け、光では海軍工廠が集中的に爆撃されて、そのため多くの軍人・軍属とともに百数十名の動員学徒が、命を落としたという。大学の同窓の友人が光の出身で、亡くなった女学生のお父さんの手記を読んだことがあると教えてくれたが、同じものと思われる手記を、今日、「光海軍工廠空襲」というサイトで、読ませていただいた。

 亡くなった女学生の家では、彼女とその弟の二人が、学徒動員のため光海軍工廠で勤務していたという。空襲のあと、弟は帰宅したが、姉が戻ってこない。翌日、お父さんは汽車で光へ出向き、多くの遺体が並べられた会館で、はじめは見つけられず、再度調べ直して、金歯と内ポケットの紙片から娘の遺体を確認したのだと、手記には書かれている。工廠が壊滅した空襲で焼かれた遺体は、外面からでは見分けることができなかったのだろう。

 戦争のさなかのこととはいえ、あまりにも痛ましい女学生の死である。空襲された場所は海軍工廠で、彼女は学徒動員のためにそこにいて、命を落としたのである。しかも、後世からみれば、翌日には、戦争そのものが終わっているのだ。あと少し早く戦争が終わっていれば、という思いをした遺族が、当時どれほどいたことだろうか。

 ポツダム宣言受諾に至る経緯は、和平派と継戦派のせめぎ合いが苛烈であったから、和平にこぎつけるために、それを主導した人たちの命がけの努力があっての15日という結果なのだという見方もあろう。しかし、何ら罪のない無辜(むこ)の国民が命を落としつづける中、なぜもっと早く、と思わずにいられなかった人々の思いを知り、忘れないことが、現在のわれわれには何よりも重要だろう。

 そして、一度始めてしまった戦争を終わらせることがどれほど大変だったか、またその陰でどれほど多くの国民が命を失ったか、ということを考えれば、戦争は始めてはならないし、国家がそうした方向へ進まないよう声を上げつづけなければならないと、答えは決まっているはずである。中学生、高校生の年代の人たちが、戦地や軍需工場で命を落とした過去の悲劇を深く反省し、現在の子どもたちの未来を明るく保ちつづけるためにも。

平成29年8月15日
小田原漂情

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Vol.269 決してあきらめずに

2017年08月09日

 本日は午前中から夏期講習の授業のため、11時2分に塾内で黙禱。Webのニュースで田上富久市長の長崎平和宣言が報じられるのを待った。この一年間で新たに死亡が確認された被爆者3551人の名簿が奉安され、犠牲者は17万5743人になったという。

 田上市長の淡々とした誠実な語りぶりは、Web上で文字を読んでもよく伝わって来る。ことに印象ぶかいのは、「核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。」「日本政府に訴えます。」と、相手を変えて二度、それぞれに対し求める内容を、ゆっくり呼びかけている点だ。もちろん田上市長も日本政府に、核兵器禁止条約への「一日も早い」参加を求めている。

 歴代の内閣、首相が、広島や長崎の訴えよりも、アメリカや世界の大国の方を気にしていたのは、残念ながら動かしがたい事実であり、現政権だけのことではない。しかし、それにしても、あまりにも聞く耳を持たない、馬耳東風というよりも悪意的に国民の声、批判の声を無視するような政府与党の権力者の言動を日ごろ見せつけられていると、広島の松井市長や長崎の田上市長の真率な訴えを受けとめる為政者のいない現在の日本は、何と空しい国なのかと思わずにいられない。

 しかし、今日の田上市長の平和宣言の中でも、「小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になる」と語られている通り、あきらめてはいけない。そして忘れてはならない。

 小さな行動でも、志を曲げずにつづけること、積み上げて行くことが重要である。私もあきらめることなく、語り、伝える自身の営みを、つづけて行こうと思う。

平成29年8月9日
小田原漂情

 
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