今年も日本コロムビアから専属解放の許諾をいただいて、昨年歌わせていただいた「長崎の鐘・新しき」の動画をYouTubeで公開している。今年は8月1日より9月30日の2か月間である。
動画や本の中でも紹介しているが、「長崎の鐘」のあとにつづけて歌わせていただいている「新しき」は、藤山一郎先生と古関裕而、サトウハチローのお三方が病床の永井隆博士を見舞われた際、永井博士がお詠みになった短歌「新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘」に、藤山先生ご自身が曲をつけられたものである(古関裕而作曲の、別タイトルの曲もある)。
1991年、私はビデオデッキを持っていなかったが、NHKで『幾多の丘を越えて‐藤山一郎80歳・青春の歌声』が放送されると知り、当時なじんでいた家電量販店の担当に無理を言って、放送に間に合うように購入し、急ぎ自室にセッティングしてもらったのだった。そのビデオデッキで、「幾多の丘を越えて‐藤山一郎80歳・青春の歌声」や、お亡くなりになった時のテレビ東京の追悼番組など、たくさん先生がお歌いになっている映像を録画した。その追悼番組で、「長崎の鐘」につづけて「新しき」をお歌いになるお姿、先にご紹介した永井博士の短歌の由来をお聞かせ下さったお姿が、この31年間、私のあるべき方向を、ずっと指し示して下さったように思われる。
私ごとで恐縮であるが、YouTubeで公開している「長崎の鐘・新しき」を歌った際ピアノで伴奏をしてくれた私の甥が、今年4月から、東京藝術大学の大学院に入り、勉強中だ。藤山先生は東京音楽学校、現東京藝術大学音楽学部の声楽科を首席で卒業なさっている。甥が受験する時には、私は毎日藤山先生に合格をお願いしていたし、甥も藝大大学院で学ぶようになって、藤山先生がお守り下さっていることを肝に銘じているようだ。
また、ある出版社から相談があり、「これからの国語教育をどうすればよいのか」という内容の本をつくろうかという話をすすめている。その中で、私と「国語」について語る時、藤山一郎先生のお教えを措くことはできないと考えている。
藤山先生の「国語」に関するお教えとは、「言葉は正しく、正確に使う」というものだ。簡にして要、これは国語の真理である。藤山先生がステージでお歌いになり、語って下さるお言葉は、まさにこの真理に貫かれていた。「ほたるの光」は、歌い出しのほたるのところのアクセントがおかしいからとご自身は歌われず、指揮をなさるにとどめたというのは、よく知られた話である。「長崎の鐘」、「新しき」を歌わせていただくと、そのお教えの深さ、ありがたさが骨の髄までしみ通ってくる。「私の歌は楷書です」ともよくおっしゃっていたが、そのお言葉を反芻しながら、自分自身の生き方がつねに正しくなければと、背筋を正す思いにかられて、私は生きて来たのである。あらためてこの31年間をふり返り、感謝の言葉をささげたい。
藤山一郎先生、長い間多くのものを与えていただき、ほんとうにありがとうございます。
https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y YouTube長崎の鐘・新しき 小田原漂情歌
令和6(2024)年8月21日
小田原漂情
言問ねこ塾長日記
言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。Vol.335 31年の今日、あらためて感謝の思いを
2024年08月21日
Vol.334 記憶し、伝えつづけることを
2024年08月15日
今日は午後から夏期講習後半の授業開始なので(私自身の授業は16時20分から)、TV視聴ではあるが、全国戦没者追悼式を見ながら正午の黙禱をし、陛下のお言葉を拝聴してから出社した。8月15日正午過ぎの日射しは強く、暑かった。
79年前、かの8月15日も、大変暑い日だったと聞く。はからずも今日の午前中に、読売新聞オンラインで今月5日に配信された「[投稿者を訪ねて]戦後79年<上>戦下の劣悪線路 SL乗務…丸山吉治さん 96(群馬県高崎市)」が目にとまり、読んだのだが、その記事中、昭和20(1945)年8月15日に、高崎駅で、一人の機関士が「こんなことになるならやっていられない」と大きな声で叫び、そのまま行方知れずとなってしまった事件があったという。
推測を交えてすこし説明させていただくと、「こんなこと」とは日本が戦争に負けたことであり、「やっていられない」というのは、記事中にもある通り国鉄も機関士などが多数軍への召集で引き抜かれ、現場に残された人々が埋め合わせで過酷な勤務を強いられたことを思わせる。現に証言をしている、当時機関助士だった丸山さんも、現場が人員不足のため、年少で期待されて採用されたのだという。
戦時中、勤務状況が厳しいことも、食糧事情が悪く物資が不足していることも、親しい人が軍にとられたり、末期は空襲などで国内の民間人まで多数命を奪われたりしたことでさえ(沖縄では地上の戦闘でも)、「すべては戦争に勝つためだ。やがて神風が吹いて日本は必ず勝つ」と信じ込まされた(あるいはそう考えるよう強制された)のだと言われる。その尺度を百八十度転換させられたのが、79年前のこの8月15日、終戦(敗戦)の日であった。
「こんなことになるならやっていられない」と叫んで消えた機関士にも、どのような背景があったのだろうか。憶測は避けるが、すべてを捨て去ってもかまわない、そうせざるを得ないほど大きなものを、その瞬間まで犠牲にして来たのだろう。戦火を浴びることなく生きているわれわれは間違いなく幸せだが、止むに止まれぬ叫び声を上げた機関士のような人が数多くいた、そんな時代の激変を知らずに済むのも、また幸せなことである。
このような事実を語って下さる方々がおられ、伝える営みが機能している、それが当たり前だと思っていてはいけない時が、残念ながら少しずつ近づいている。語り伝えて下さる方々は、それがいま一時のことでなく、ふたたび往時と同じ社会にならぬよう、ずっと伝えつづけることをも、われわれに託しておられるであろう。受けとめるわれわれのありようこそが大事である。9日の長崎の平和祈念式典における長崎平和宣言では、「一人ひとりは微力であっても、無力ではありません」と、長崎市長が「平和をつくる人々」に呼びかけた。
つねに学び、記憶し、伝えつづけること。改めて心に誓い、できることをつづけるばかりである。
https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y YouTube「長崎の鐘・新しき」小田原漂情 歌
令和6(2024)年8月15日
小田原漂情
79年前、かの8月15日も、大変暑い日だったと聞く。はからずも今日の午前中に、読売新聞オンラインで今月5日に配信された「[投稿者を訪ねて]戦後79年<上>戦下の劣悪線路 SL乗務…丸山吉治さん 96(群馬県高崎市)」が目にとまり、読んだのだが、その記事中、昭和20(1945)年8月15日に、高崎駅で、一人の機関士が「こんなことになるならやっていられない」と大きな声で叫び、そのまま行方知れずとなってしまった事件があったという。
推測を交えてすこし説明させていただくと、「こんなこと」とは日本が戦争に負けたことであり、「やっていられない」というのは、記事中にもある通り国鉄も機関士などが多数軍への召集で引き抜かれ、現場に残された人々が埋め合わせで過酷な勤務を強いられたことを思わせる。現に証言をしている、当時機関助士だった丸山さんも、現場が人員不足のため、年少で期待されて採用されたのだという。
戦時中、勤務状況が厳しいことも、食糧事情が悪く物資が不足していることも、親しい人が軍にとられたり、末期は空襲などで国内の民間人まで多数命を奪われたりしたことでさえ(沖縄では地上の戦闘でも)、「すべては戦争に勝つためだ。やがて神風が吹いて日本は必ず勝つ」と信じ込まされた(あるいはそう考えるよう強制された)のだと言われる。その尺度を百八十度転換させられたのが、79年前のこの8月15日、終戦(敗戦)の日であった。
「こんなことになるならやっていられない」と叫んで消えた機関士にも、どのような背景があったのだろうか。憶測は避けるが、すべてを捨て去ってもかまわない、そうせざるを得ないほど大きなものを、その瞬間まで犠牲にして来たのだろう。戦火を浴びることなく生きているわれわれは間違いなく幸せだが、止むに止まれぬ叫び声を上げた機関士のような人が数多くいた、そんな時代の激変を知らずに済むのも、また幸せなことである。
このような事実を語って下さる方々がおられ、伝える営みが機能している、それが当たり前だと思っていてはいけない時が、残念ながら少しずつ近づいている。語り伝えて下さる方々は、それがいま一時のことでなく、ふたたび往時と同じ社会にならぬよう、ずっと伝えつづけることをも、われわれに託しておられるであろう。受けとめるわれわれのありようこそが大事である。9日の長崎の平和祈念式典における長崎平和宣言では、「一人ひとりは微力であっても、無力ではありません」と、長崎市長が「平和をつくる人々」に呼びかけた。
つねに学び、記憶し、伝えつづけること。改めて心に誓い、できることをつづけるばかりである。
https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y YouTube「長崎の鐘・新しき」小田原漂情 歌
令和6(2024)年8月15日
小田原漂情
Vol.333 8月9日、「人類共有の世界遺産」という指針
2024年08月09日
今日は午前10時45分からの長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を視聴してから出社した。近年、この9日も午前の授業を設定しない落ち着きを持つことができ、長崎の式典を視聴してから出社する習慣が定着している。
また、私はこれまでに、長崎を4回訪ねている。最初は高校の修学旅行、二回目は大学の合宿で佐賀に行った帰路に足を伸ばしたもので、この時は平和公園などに行っていない。3回目は1995年、戦後50年の年の梅雨時で、長崎原爆資料館などを訪ね、はっきりと長崎の原爆について学ぶことを目的としていた。梅雨にしては激しい雨の中だったが、平和公園、長崎原爆資料館を訪れ、ひきつづき永井隆記念館をめざす途上で如己堂(にょこどう/永井博士がお子さんお二人と暮らされたご自宅の跡)に出会ったのであった。また自分なりの課題として、聞く人がいたわけではないが「長崎の鐘」を雨の市中で歌わせていただいた。32歳の時である。
そして4回目が一昨年、2022(令和4)年3月で、『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』をつくるための取材であった。この時は、長崎で案内をして下さる方があり、平和公園と原爆資料館のあと、私が希望した如己堂に加え、山里小学校と城山小学校に連れて行っていただいた。この時両小学校に連れて行っていただいたことから、実地で案内をしていただくことがこの上ない恵みであることを実感した。
城山小学校平和祈念館では、館内の展示で、二人の少女が荼毘(だび)に付されている「未来を生きる子ら/悲しき別れ・荼毘」の絵と紹介文を見ることができ、『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』で書かせていただいた。
また、城山小学校の構内で「嘉代子桜」を見て手を合わせ、あとで新日本出版社刊の『かよこ桜』(山本典人さく/井口文秀え)を購入した。帰京してから同書を読み、学徒動員で城山小学校の工場で働いていて原爆の犠牲になった嘉代子さんのために、お母さんが桜を植えられた経緯、当日の朝嘉代子さんは工場に行きたくないと渋っており、説得して送り出したお母さんが悔悟の念にかられたことなど、あらためて学んだ次第である。
今日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では、89歳になられる被爆者代表の三瀬清一朗さんが「平和への誓い」を述べられた。三瀬さんは岸田首相に、被爆国日本こそが、核廃絶を世界中の最重要課題として真摯に向き合うことを求めた上で、最後は英語と日本語とで、「”peace is a world heritage shared by all humankind”、平和は人類共有の世界遺産であると申し上げ、亡き御霊へささげる平和への誓いの言葉といたします。」と結ばれた。人類共有の世界遺産を守ることを、私も自ら肝に銘じ、指針とさせていただきたい。
『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』
https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y YouTube「長崎の鐘・新しき」小田原漂情 歌
令和6(2024)年8月9日
小田原漂情
また、私はこれまでに、長崎を4回訪ねている。最初は高校の修学旅行、二回目は大学の合宿で佐賀に行った帰路に足を伸ばしたもので、この時は平和公園などに行っていない。3回目は1995年、戦後50年の年の梅雨時で、長崎原爆資料館などを訪ね、はっきりと長崎の原爆について学ぶことを目的としていた。梅雨にしては激しい雨の中だったが、平和公園、長崎原爆資料館を訪れ、ひきつづき永井隆記念館をめざす途上で如己堂(にょこどう/永井博士がお子さんお二人と暮らされたご自宅の跡)に出会ったのであった。また自分なりの課題として、聞く人がいたわけではないが「長崎の鐘」を雨の市中で歌わせていただいた。32歳の時である。
そして4回目が一昨年、2022(令和4)年3月で、『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』をつくるための取材であった。この時は、長崎で案内をして下さる方があり、平和公園と原爆資料館のあと、私が希望した如己堂に加え、山里小学校と城山小学校に連れて行っていただいた。この時両小学校に連れて行っていただいたことから、実地で案内をしていただくことがこの上ない恵みであることを実感した。
城山小学校平和祈念館では、館内の展示で、二人の少女が荼毘(だび)に付されている「未来を生きる子ら/悲しき別れ・荼毘」の絵と紹介文を見ることができ、『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』で書かせていただいた。
また、城山小学校の構内で「嘉代子桜」を見て手を合わせ、あとで新日本出版社刊の『かよこ桜』(山本典人さく/井口文秀え)を購入した。帰京してから同書を読み、学徒動員で城山小学校の工場で働いていて原爆の犠牲になった嘉代子さんのために、お母さんが桜を植えられた経緯、当日の朝嘉代子さんは工場に行きたくないと渋っており、説得して送り出したお母さんが悔悟の念にかられたことなど、あらためて学んだ次第である。
今日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では、89歳になられる被爆者代表の三瀬清一朗さんが「平和への誓い」を述べられた。三瀬さんは岸田首相に、被爆国日本こそが、核廃絶を世界中の最重要課題として真摯に向き合うことを求めた上で、最後は英語と日本語とで、「”peace is a world heritage shared by all humankind”、平和は人類共有の世界遺産であると申し上げ、亡き御霊へささげる平和への誓いの言葉といたします。」と結ばれた。人類共有の世界遺産を守ることを、私も自ら肝に銘じ、指針とさせていただきたい。
『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』
https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y YouTube「長崎の鐘・新しき」小田原漂情 歌
令和6(2024)年8月9日
小田原漂情