言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.282 峠の我が家

2018年10月26日

 われわれが中学生の頃の音楽の教科書には、アメリカ民謡の『峠の我が家』が載っていた。今はどうなのか、ときどき期末テスト前に子どもたちに持って来させる教科書では、あまり見かけないように思われる。試みにネットで検索してみると、昔の教科書に載っていて今は載っていない歌というような記事がいくつかあって、『峠の我が家』の名も見出される。

 国語の教科書でも、文学作品の取捨、変遷はあることだから、いつ頃まで載っていたのかということに関心はあるし、さびしいことだとも思うけれど、私個人としては、学校の音楽の教科書に載っているかどうかという点よりも、この歌にもっと深い、大きな思いがある。そのことをお話ししたいと思う。

 日本では、この歌は昭和15年(1940年)に灰田勝彦先生が歌われて、レコードになっている。お兄様の晴彦先生(のち改名されて有紀彦先生)が編曲なさり、佐伯孝夫さんの訳詞で、この時はすべて日本語の歌詞で歌われた。戦後は2番が英語の歌詞で、ステレオ盤では勝彦先生が本物の英語でお歌いになったレコードが、いくつかあるのだ。

 そしてどちらのアレンジでも、最後は灰田勝彦先生の美しいファルセット(裏声)が、この牧歌的な佳曲を締めている。また、前奏はスチールギターの美しい音色で、灰田晴彦先生の演奏であると考えられる。晴彦先生がモアナ・グリークラブを立ち上げられ、ハワイアンを日本に紹介なさったことは折にふれ書いて来たが、スチールギターも勝彦先生のファルセットも当時の日本には例のなかったもので、晴彦先生も勝彦先生も、観客が勝手に照れてしまうというような、草創期の苦労をなさったのだと聞く。

 私個人は、36年前の10月26日に勝彦先生がお亡くなりになり、大変なショックを受けた。その時私は19歳だった。そして『アルプスの牧場』を何とか歌えるようになりたい、その一心で、声の出し方もわからない裏声のファルセット(『アルプスの牧場』などではヨーデルと言う)を毎日手さぐりで練習した。そして2か月を過ぎたころ、ようやくそれらしい声が出るようになったのだが、この時の経験が、その後の私の生き方のもととなった。すなわちどんなことにも挑戦するし、最後まであきらめないという、ものごとへの取り組み方である。さらに二十代の半ばごろには、人との付き合い方や人間性までが、十代のころとは大きく変わった。まことに灰田勝彦先生は、私にとって命の恩人なのである。

 その先生のご命日である今日、十数年前からのならいであるお墓参りにお邪魔し、ご墓前にご報告させていただいた上で、『峠の我が家』を歌わせていただいた。編曲とスチールギターの演奏が、10日前に書かせていただいた有紀彦先生だから、ご兄弟への感謝の念を込め、歌わせていただいた次第である。書き、語り、歌いつづけることで、先生方への感謝の思いを、いつまでも形あるものとして行きたい。それが今年の、私の存念のすべてである。
https://www.youtube.com/watch?v=inFggl-d9dk 峠の我が家 小田原漂情


平成30年10月26日
小田原漂情



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Vol.281 10月16日、灰田有紀彦先生に

2018年10月16日

 今年もこよみが十月の半ばをすぎて、今日16日を迎えた。故灰田有紀彦先生のご命日である。私のように、戦後おそくに生まれ、勝彦先生が六十を過ぎていらっしゃるあたりから灰田メロディーに親しんだ享受者としては、まず<灰田勝彦>という光り輝く存在を知り、そしてお兄様の<灰田有紀彦>というみなかみを知るという経緯をたどったのが普通であろう。

 戦前のオールドファンの方たちは、まず「灰田晴彦(戦後、有紀彦と改名なさった)とモアナ・グリークラブ」の活躍からご兄弟に親しみ、弟の勝彦先生のことは「トシ坊、トシ坊」(本名、稔勝=としかつ)と愛称したらしい。私の手もとにも、お名前も名のられぬ勝彦先生の古いファンの女性からいただいた、一通の長いおたよりが残っている。その方は三重県の御在所岳の麓にお住まいで、私が1992年に刊行した『遠い道、竝に灰田先生』(画文堂版)を、中日新聞に出した広告を見てご購入下さり、十年前に泉下に旅立たれた勝彦先生への淡い清らかな思いを私に託して、長い手紙をお送り下さったのであった。

 今にして思えば、少年時代にハワイから日本へやって来て(父の死に伴う帰郷)、ふるさとのハワイを思う気持ちをハワイアンの調べに乗せた若き日の有紀彦先生(晴彦先生)のお気持ちこそが、勝彦先生を音楽の道にいざない、御在所岳の麓のご婦人など多くのファンを勝彦先生のもとにみちびいた。そしてさらに年月を経て、ご兄弟の美しい音楽(灰田メロディー)とその大きな存在は私のような若年者をもひきつけて下さって、こんにち私がこのような文章を綴る流れへと、みちびいて下さったのである。

 そして、灰田有紀彦先生、勝彦先生ののこして下さった『森の小径』ほかの美しいメロディーは、青春期の私をささえてくれ、こんにちまで長く、真っすぐ歩む道へとみちびいて下さった。このような出会いこそ、表現者である私にとって自分自身の念願とするべきところであるし、また今日のような日は、文字通りそのみなかみである灰田有紀彦先生に、心から感謝の思いを捧げたい。これからも有紀彦先生、勝彦先生のすばらしさを伝えることで、ご恩返しにつとめたいと願う今日一日である。


平成30年10月16日
小田原漂情
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Vol.280 四半世紀をかぞえて

2018年08月21日

 ここ数日、わりと涼しさを感じる日がつづいていたが、今日は朝から陽射しが強く、夏らしい空が広がっていた。まさに太陽の力を総身に受けて、駅までの道を歩いたが、なつかしき旋律がよみがえって来るのとともに、私自身の存在の奥底から、強い力がみなぎって来ることを感じていた。

 今日8月21日は、藤山一郎先生のご命日である。ことしで25年。四半世紀を数えるに至った。おなくなりになったのは1993年のことだった。二十世紀のうちは、あえて紹介するまでもなく誰もが「ああ、あの方」というくらいには先生のことを知っていたが、塾の生徒のほとんどが二十一世紀生まれであるこんにち、四半世紀という時の大きさを、思わぬわけに行かない。

 この夏休み、昔ほど子どもたちのにぎわいはないようだが、「今朝ラジオ体操に行って来た」という声を、二度ほど聞いた。そのつど思ったのは、『ラジオ体操の歌』である。現在も多くの人々に親しまれているあの名曲は、藤山先生が作曲なさった曲であり、ご自身が歌われて、世に広めて下さった。小学生の頃、転居先での夏休みには朝のラジオ体操が全員強制参加で、そこで流されている「体操用」のテープの歌には、正直なじめなかったものだが、長じてからテレビで藤山先生が自ら歌って下さる『ラジオ体操の歌』をお聞きして、「こんなにすばらしい歌だったのか」と瞠目するとともに、体がふるえるような感激につつまれたことを思い出す。今朝はその時の力がもどって来たように思われたのだ。

 25年前のこの日、私は名古屋に住んでいて、営業の仕事を午前で切り上げ、午後は半休をもらって、豊橋から新幹線で上京した。居ても立ってもいられず、ご自宅へ弔問に駆けつけたのである。ご自宅では、お柩の先生に一人ずつ「献花」ができる祭壇をしつらえて下さっていた。ご生前にお目にかかる機会のなかった私は、この時はじめて先生のご尊顔をじかに拝して、ただ深く頭を垂れるばかりであった。献花させていただいた時には、先生の『懐かしのボレロ』が流れていた。四半世紀前のことではあるが、昨日のことのように覚えている。

 今年は春の終りに、祐天寺で知人と会う機会があり、自宅から歩いて行った。藤山先生のお住まいの辺りを、もとおるためである。25年前に弔問に伺った日からしばらく経って、家内との結婚を内々ご報告するつもりでお近くを歩かせていただいた日以来のことになるから、二十何年ぶりのことだった。油面(あぶらめん)というご近所の一帯は、閑静な住宅街だが、凛とした空気の中、いつも私を先生がやさしく迎えて下さるように思われる。そして毎年誓うことだが、先生から受け継がせていただいたものを、今後も心して、守り、伝えて行かなければならないということが、強く感じられた。四半世紀をかぞえたご命日の今日をむかえて、あらためて自分自身のなすべきことと心に思う次第である。


2018年8月21日
小田原漂情
posted by hyojo at 18:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記