言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.274 恩師を思う

2017年11月09日

 11月、霜月。普段は受験が近づき、受験生を鼓舞する記事を多く発信させていただいているが、この季節はまた、「喪中」の知らせが届きはじめるときでもある。

 昨夜帰宅すると、中学の3年間、韻文学クラブで短歌をはじめ文学を広く教えて下さり、3年次には国語の授業でもご指導を賜った恩師の奥さまから、先生が2月にお亡くなりになったという葉書が届いていた。やはり、という思いに言葉を失う。毎年いただいている年賀状を、今年は目にしておらず、案じ申し上げていたのである。

 5年ほど前、鎌倉で、先生はご自分の絵の個展を開かれた。その際、妻とともにお邪魔して、お話をさせていただいた。私自身、直接お目にかかるのは、高校を卒業してはじめてのことだったかも知れない(高校時代に母校の文化祭に行き、当然韻文学クラブの教室に顔を出している)。先生はその時、「最近は文学からは遠ざかり、もっぱら絵ばかりを描いているよ」と教えて下さった。しかし、私が短歌あるいは韻文の韻律を学んだのは、このA先生がはじめてである。

 「韻文学クラブ」だから、必然と言えるのかも知れない。だが私にはいま一つ、自分が現在言問学舎で国語を教えていて、このA先生のお教えを如実に感じる瞬間があることを、先生への感謝の思いを書き記すためにも、ここで語らせていただきたい。

 <三代の栄耀一睡のうちにして、大門のあとは一里こなたにあり。・・・> 

 松尾芭蕉の『おくのほそ道』、「平泉」のくだりの冒頭である。このくだりは私自身、中学生の時から一字一句忘れたことのない、音韻のすぐれた名文であるが、実はいま、おもに中3生の子どもたちにこのくだりを音読して聞かせるとき、それを読む自分の根底にあるのは、四十年ほど前に中学校の教室でA先生が中3の私たちに読んで下さった、あの音調であることを感じとり、「師」の教えの大きさを身にしみて感じることがある。

 もちろん、私もその後四十年以上、いろいろな勉強をし、実際に平泉へ足を運びもして、さらに自分なりの工夫も加えているから、当時先生がお読みになったそのままの読み方をしているのだとは、考えていない。しかし、子どもたちの心をつかむよう、あるいは心にひびくようにと、思いをこめて音読するとき、私の耳の奥に聞こえているのは、あのときの先生のお声のように思えてならないのだ。

 また、5年前の先生のお顔をデジタルカメラのファイルの中から探し出し、私が先生を撮影させていただいた1枚を見つめると(ほかに2枚、家内が私と先生を写したものがある)、四十年前の中学生当時、授業中に「小田原!」と、読解の答えを求める視線を向けて下さったお顔そのままで、嗚咽をこらえることができなかった。その当時、「小田原は読解力がある」と授業中に皆の前でほめて下さったことも、国語に対しての自信を深めることになった経験として、忘れられない。

 私は小さな私塾の教師ではあるが、私自身に大きな国語の力を教えて下さり、強く生きる道を教えて下さった先生方が私に与えて下さったもの、それを今度は私自身が、一人でも多くの子どもたちに伝えて行くこと、そして子どもたちの国語の力をできる限り伸ばすことで、先生方のご恩に応えたい。そのことを改めて心に誓って、私に国語と文学、短歌の道を開いて下さったA先生に、感謝の思いをささげるばかりである。

 先生、ありがとうございました。





posted by hyojo at 15:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.273 10月26日、わが夢わが歌

2017年10月26日

 週末二度にわたっての台風と、昨日も雨だったので案じていたが、今日は秋らしい快晴の一日となり、灰田勝彦先生のお墓参りを無事にすませることができた。港区内にあるご墓所は日当たりが良く、差し上げたお水が午前の光にきらめいて、こちらの心も澄みとおるように感じられる。また一年、元気に生きてまいりました、今はこんな仕事を手がけています、など心中ご報告するならいも、もう十年以上になった(ご墓前でなく、この日に先生を思うことだけなら、35年間欠かしたことはない)。

 それから出社して、先生の「わが夢わが歌」を歌わせていただいた。佐伯孝夫作詞、服部良一作曲のこの歌は、昭和24年(1949年)7月に発売されたが、その12月に、灰田先生は結婚なさっている。奥様は、昭和15年(1940年)に知り合われたハワイ生まれのフローレンス・君子夫人で、戦時中は日本とハワイに離れ離れでありながら互いに思いを深めておられたが、戦後も4年経ってようやく結ばれることになったのだと聞く。

 この歌は、悲しみを伴わない、純然たる愛の賛歌である。戦争で結婚はおろか、行き来して会うことさえもできない苦しみの中に置かれながら、お互いを信じて待ちつづけた9年間は、どれほど長かったことだろう。そしてまた、晴れて君子夫人を日本に迎えることができるようになった時の先生の喜びは、いかほどのものであったろう(印象深い高峰秀子さんの述懐があるのだが、本日は引用をひかえさせていただく)。今日はお墓参りをしていて、墓碑の側面に彫られた奥様のお名前を拝見するうちに、この歌のことをどうしても紹介したいと感じた次第であった。

 先生が亡くなられて、今日で35年。かつて自分自身が生まれてから35歳に至るまでの悲喜こもごもの年月を思うと、その時間の長さが如実に感ぜられる。19歳の時からそれだけの長い時間を、灰田先生のおかげで私は生きて来ることができたのだという、感謝の思いとともに。今日はそのことをお話しして、35回目のこの日の結びとしたい。

 https://www.youtube.com/watch?v=_Sy8fT5Jk94 わが夢わが歌

posted by hyojo at 20:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.272 鈴懸の径、森の小径のこと

2017年10月16日

 今日10月16日は、故灰田有紀彦先生のご命日である。今年は特に、先生が作曲され、弟の勝彦先生が歌われた、『鈴懸の径』と『森の小径』のことを、お話ししたい。

 作詞はいずれも佐伯孝夫氏で、『鈴懸の径』は昭和17年(1942年)、『森の小径』が昭和15年(1940年)に発売された。どちらも「灰田メロディー」を代表する大ヒット曲であり、また長く歌い継ぐべき、美しい佳曲である。

 さて、この2曲の灰田メロディーには、現在のわれわれにとって深い示唆をふくむ、かなしい歴史が付随している。多少とも客観的な記述とするため、私自身の旧著で恐縮ではあるが、1992年10月刊行の『遠い道、竝に灰田先生』より、『森の小径』についての一節を引用させていただきたい。

 <今では書名も著者もわからなくなってしまったが、大学の図書館で見つけたある本に、次のような意味のことが書かれていた。「ある意味で、もっとも灰田勝彦らしいと言える一曲。淡い夢さえも現実には見ることを許されなかった戦時下の若者たちが、ひそかに愛唱したという。ある飛行兵は毎日わずかな空き時間に、基地のはずれでひっそりこの歌を口ずさみ、飛んで行って、そして再び帰らなかった。」>

 『森の小径』は、美しく清らかな、淡い恋の歌である。日中戦争から太平洋戦争へと局面が進み、戦況がきびしくなるにつれ、国内でも物資の不足、生活の窮乏が著しくなり、当たり前の男女の交際なども許されない風潮になって行った。引用した本の飛行兵の例などは、異性にあこがれの気持ちを持つことさえ押さえられ、『森の小径』という歌の中に、切ない思いをせめても託していたのである。このような青少年は数多く存在したし、歌われた灰田勝彦先生は、あの歌で救いのない道を生きる若者が少しでも夢や希望を持ってくれたのだとしたら、歌手になってよかったし、歌手として本望だったと述べられている(前掲書および「ビッグショー/青年66歳」より)。

 『鈴懸の径』は、立教大学構内に勝彦先生の筆跡の碑が現存しており、立教大学の鈴懸の径をテーマに青春の友情を歌っている。各種のアレンジによって、世界的にも広く知られたメロディーである。そしてこの歌も、「友情」をモチーフとして、死の待つ戦線へ出撃して行く往時の若者たちに愛唱されたのである。どちらの曲も美しいメロディーに、美しい言葉がのせられて、多くの若人たち(その方たちは私たちの先人である)の心をつかんだ。そしてその歌への思いを胸に、将来ある若い先人たちが、戦争で不幸な死を遂げられたのである。

 あらためて述べるまでもなく、現在わが国をとりまく情勢は予断をゆるさない。その中で、「戦争がはじまるのは止むを得ない」などの言葉も、目にすることがある。しかし止むを得ない、しかたがないなどと皆が考えてはいけない。もしそうなってしまったら、自分の愛する人が命を奪われ、生活基盤も失われ、当然自分自身の命さえ、失われるかも知れないのだ。当たり前のことを、当たり前に発言できる社会の中で、発言すべきことを発言しなければならない。灰田有紀彦先生のご命日に、今年はこのことを述べさせていただきたい。



posted by hyojo at 16:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記