言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.284 令和元年6月23日 思うこと、三点

2019年06月23日

 本日の沖縄全戦没者追悼式での玉城デニー沖縄県知事の平和宣言を読んで、思ったことが三つある。

 一点目は、知事が平和宣言の中で日本国民に対して呼びかけた「日本国民全体が自ら当事者であるとの認識を持っていただきたい」(6月23日朝日新聞インターネット版記事より引用)という点について、私自身が思いを新たにしなければならないと感じたことである。私自身のことを述べると、小学校の後半から大学卒業直後まで神奈川県の大和市で育ったので、米軍基地の問題については曲がりなりにも当事者だった。小・中学校の校舎の窓は防音の二重だったし、学校の授業中でも、自宅で勉強している時や団欒のさなかでも、軍用機の騒音で集中することも会話をすることもできないことが頻繁にあった。就職して家を出た後だったが、今でも老母が住んでいる家の界隈が、タッチアンドゴーの騒音で悩まされることともなった。米軍基地の近くに住むことの影響を如実に知っているという意味では、その当事者の一部ではあったのだ。
 だが、それは沖縄の当事者であることでは決してない。ことに、沖縄の米軍基地をどうすればよいのかということを考える上で、県外へ移設する首相案が否定されて以来、沖縄の基地の現実的解決案は、きわめて道を狭められてしまい、考えることだけでも自家撞着に陥ってしまうこととなったきらいがある。そのために、自分の意見、考えというものを表明しにくい状況でもあったのだが、だからといって口をつぐんでしまってよいはずもない。「当事者意識を持つべきだ」と明言してくれた玉城知事の立場を支持することから、私の立場も明確にしておきたい。

 第二は、やはり玉城知事の平和宣言で述べられた、次の部分に関する見解である(引用 同)。
「(今年2月の、辺野古埋め立てに関する県民投票実施を受け)その結果、圧倒的多数の県民が辺野古埋め立てに反対していることが、明確に示されました。
 それにもかかわらず、県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をも蔑(ないがし)ろにするものであります。
 政府におかれては、沖縄県民の大多数の民意に寄り添い、辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望いたします。
 私たちは、普天間飛行場の一日も早い危険性の除去と、辺野古移設断念を強く求め、県民の皆様、県外、国外の皆様と民主主義の尊厳を大切にする思いを共有し、対話によってこの問題を解決してまいります。」
 沖縄は、「対話による解決」を公に要望している。要望された政府は当然「対話」をはじめることから応えるべきであろうし、当事者であるべき国民は、自身の持っている民主的な手段で行動するほかないだろう。

 そして、昨年8月に亡くなられた、沖縄県前知事翁長雄志氏への思いである。2014年に沖縄県知事に就任してから、氏が知事として苦しみ、奮闘された歩みは、つねに注視していた。亡くなられてから、翁長氏が「自分はこれ以上頑張れないほど頑張った」という意味のことを夫人に語られたと聞いて、同時代に生きた人の中で翁長氏ほどその言葉にふさわしい人はあるまいと、感じたものである(私自身も過去に二度ほど、自分の限界まで力を尽くしたと思ったことはあるが、翁長氏とは到底比較にならない。翁長氏ほど苦闘した人を、歴史上の人物でなく実際に同じ時代を生きた人の中に知らない、という意味である)。その翁長氏の思いを決して忘れず、今日の玉城知事の平和宣言をつねに当事者として意識しつづけることを、本日胸に刻んだ次第である。

令和元年6月23日
小田原漂情

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Vol.283 平成31年4月30日

2019年04月30日

 あと2時間あまりで、本稿のタイトルとさせていただいた「平成31年4月30日」が終わりとなる。すなわちこの30年と4か月弱の間、私どもが親しくなじみ、自らの拠って立つ基盤と信じてきた「平成」の世が終わりとなるのである。年頭にも記したが、私はこの平成の御代に人生の最も壮(さか)んな時期を送れたことを、深く感謝するばかりである。今日のこの日に、それ以外の感慨めいたことは、とうてい口にすることができない。

 しかしながら、この一日を胸に刻むために一文をしたためるのだから、少しく自分の来し方をふりかえり、行く末に思いを致すことも、ゆるされよう。「昭和」から「平成」の世を迎えた時、私は25歳と11か月、ちょうどあとひと月で、26歳になるところであった。その頃は、転職して間もない学習参考書の出版社に身を置いていた。その転職と並行するようにして、第一歌集を上梓し、歌人として生きることを、自らに課して間もない頃であったと思われる。

 三十年という時を経て、自身の年齢も五十の半ばを過ぎてみると、その間のことを一年、二年という短い区切りでふりかえることが難しくなっていることを、思わないわけに行かない。きわめて大雑把な区切り方ではあるが、三十年を十年ずつに区切ってみると、はじめの十年は、昭和の最終盤に志した通り、短歌を書くことに集中して生きていたと言っていいように思う。35歳の時に第四歌集を出した、その頃までは、25歳で転職を考えた際の志のまま、進んでいたように思う。もちろん、勤めている会社の中で年齢が上がるうちには、従業員組合の委員長職など、思いがけない変転を余儀なくされることもあったのだが。

 その次の十年は、会社勤めを辞め、ニ、三の勤め先を移りながら、現在経営している言問学舎にたどりつくまでが、前半だった。そこからあとは、今度は塾の経営一本に集中しながら、自分のなすべきことをやりとげるべく、あがきつづけてきたのであろうか。平成の三十年のうち、二つ目の十年の後半と、三つ目の十年は、ほとんどすべてが言問学舎と一体の私の人生だったのだと言うのが正しいだろう。

 さて、それらのことを思い返しつつ、私の人生における平成の三十年間を考えると、紆余曲折、いくばくかの苦労も経験しながら、自分の生きたい道を生きて来た、得がたい三十年間だったと実感する。平成の御代が今日で終わりになるということがわかってから、ずっと思っていたことであるのだが、私がこのように歩んで来られたのは、まさに平成の御代だからであり、民の安寧と平和をつねにお考え下さった、大きなおこころがあってこそのことなのではないかということだけを、今日のこの日には、記させていただきたい。そして改めて表明するが、私は自分の人生のもっとも充実した時期を、平成の御代に送ることができ、この上なく幸いだった。明日からの新しき令和の世に、私は自分のなすべきことを、子どもたちのために能う限り尽くすことで、みずからのつとめを果たしたいと考える。


平成31年4月30日
小田原漂情
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Vol.282 峠の我が家

2018年10月26日

 われわれが中学生の頃の音楽の教科書には、アメリカ民謡の『峠の我が家』が載っていた。今はどうなのか、ときどき期末テスト前に子どもたちに持って来させる教科書では、あまり見かけないように思われる。試みにネットで検索してみると、昔の教科書に載っていて今は載っていない歌というような記事がいくつかあって、『峠の我が家』の名も見出される。

 国語の教科書でも、文学作品の取捨、変遷はあることだから、いつ頃まで載っていたのかということに関心はあるし、さびしいことだとも思うけれど、私個人としては、学校の音楽の教科書に載っているかどうかという点よりも、この歌にもっと深い、大きな思いがある。そのことをお話ししたいと思う。

 日本では、この歌は昭和15年(1940年)に灰田勝彦先生が歌われて、レコードになっている。お兄様の晴彦先生(のち改名されて有紀彦先生)が編曲なさり、佐伯孝夫さんの訳詞で、この時はすべて日本語の歌詞で歌われた。戦後は2番が英語の歌詞で、ステレオ盤では勝彦先生が本物の英語でお歌いになったレコードが、いくつかあるのだ。

 そしてどちらのアレンジでも、最後は灰田勝彦先生の美しいファルセット(裏声)が、この牧歌的な佳曲を締めている。また、前奏はスチールギターの美しい音色で、灰田晴彦先生の演奏であると考えられる。晴彦先生がモアナ・グリークラブを立ち上げられ、ハワイアンを日本に紹介なさったことは折にふれ書いて来たが、スチールギターも勝彦先生のファルセットも当時の日本には例のなかったもので、晴彦先生も勝彦先生も、観客が勝手に照れてしまうというような、草創期の苦労をなさったのだと聞く。

 私個人は、36年前の10月26日に勝彦先生がお亡くなりになり、大変なショックを受けた。その時私は19歳だった。そして『アルプスの牧場』を何とか歌えるようになりたい、その一心で、声の出し方もわからない裏声のファルセット(『アルプスの牧場』などではヨーデルと言う)を毎日手さぐりで練習した。そして2か月を過ぎたころ、ようやくそれらしい声が出るようになったのだが、この時の経験が、その後の私の生き方のもととなった。すなわちどんなことにも挑戦するし、最後まであきらめないという、ものごとへの取り組み方である。さらに二十代の半ばごろには、人との付き合い方や人間性までが、十代のころとは大きく変わった。まことに灰田勝彦先生は、私にとって命の恩人なのである。

 その先生のご命日である今日、十数年前からのならいであるお墓参りにお邪魔し、ご墓前にご報告させていただいた上で、『峠の我が家』を歌わせていただいた。編曲とスチールギターの演奏が、10日前に書かせていただいた有紀彦先生だから、ご兄弟への感謝の念を込め、歌わせていただいた次第である。書き、語り、歌いつづけることで、先生方への感謝の思いを、いつまでも形あるものとして行きたい。それが今年の、私の存念のすべてである。
https://www.youtube.com/watch?v=inFggl-d9dk 峠の我が家 小田原漂情


平成30年10月26日
小田原漂情



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