言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.263 研鑽と進化を

2017年02月11日

 今日は建国記念日。東京都と神奈川県の私立高校の入試日2日目である。昨日につづき、高校入試と大学入試に挑戦している受験生たちがいる。みな長く通ってくれている子たちであり、今朝はいろいろなことが気になって、暗いうちから起き出してしまった。

 今年も二度ほど書いているが、受験生を送り出したあとは、「祈りの気持ち」になる。これはいわゆる「神だのみ」とは、すこし違う。同じ「祈る」にしても、後者は「どだい無理と思われるものを、神にすがって何とかして欲しいと願う」意の言葉と思われる。しかし受験生の成功を最後に祈るのは、当日の体調や出題内容の適不適、そして何より、受けた本人が十分力を出し切れるかどうか、なのである。

 とくに、受験するのは一人一人の当人たちだから、最後の部分が何よりも気がかりだ。長く受験指導をしている中では、予想できなかったような例も当然あるし、今年も毎日、大学受験生の帰路報告を受けながら、平素の力を出し切ることのむずかしさを、改めて感じているところでもある。送り出すまで能う限りの指導をして、最後は心から合格を祈る。毎年この時期、この2月は、同じことの繰り返しだ。

 先日、都下にある和食のお店に、久しぶりにお邪魔して来た。何度かお邪魔しているのだが、ご主人の料理にかける研鑽の思いは敬服に値するもので、今回もまた、その料理の技の冴えたるや、凄味とまで言えるものを感じた。私も毎年繰り返す受験指導であり、日々の国語指導、その他の教科指導だが、一年一年、いや一日一日、進化をつづけなければと誓う次第である。


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Vol.262 国語のアクティブラーニング‐おくればせながら今年の抱負として

2017年02月07日

 今年もまた、中学受験を終え、大学受験の一般入試がはじまり、さらに今週の金曜日から、高校受験の生徒たちが、それぞれの挑戦をはじめる。

大学を卒業してそのまま教職に就いた友人たちがすでに30年以上、こうしたなりわいを重ねていることを思えば、まだその半分にも満たぬ15年目だが、それでもずいぶん長い間、受験生たちと苦楽をともにして来た思いがある。もちろん、「教育」にたずさわりはじめたのは二十代の半ばからだから、ほぼ半生を、この教育という場の一端にかかわって来たのだけれど。

 かえりみれば、私自身は歌人として、二十代から三十代半ばまでは、短歌という場を、生きる上での主たる場所としていた。文学上の立脚点は別にして、いくつかの偶然が、四十前後から、「塾」という私教育の現場で生きることを、私の身の上に課したのである。むろん短歌が主体であった時期、それが生業だったわけではない。そのころ生業として勤めていた出版社での経験が、今の私の生業のきっかけとなってはいる。 

 そしてまた、そのころ「塾」という仕事は、自分には向かないものだと思っていた。30年以上教職をつづけている友人たちが往時から有していたのであろう、教えることへの熱情が、若いころの私にはなかったからである。人、すなわち子どもの一生を左右することとなりうる重い職責は、二十歳過ぎの自分には負い切れぬと、その年代の私は、考えていたのだった。

 そのことが正解だったのかどうかは、わからない。ただ、二十代の頃には、自らそれを負う覚悟がなかったことは、間違いない。そして四十代にこの小さな塾をはじめ、五十半ばにさしかかろうとしている今の私には、たぶん「子どもの一生を左右する」可能性の自覚は、ありすぎるほどあるだろう。それゆえに、日々、のんびりしている子どもたちへの焦燥は、つのるばかりかも知れない。早く君たちも自覚しろと、ずつと前から言いつづけているつもりだが、この数年の子どもたちの集中力のなさ、あちらこちらへの気の散りようには、危惧を覚えてしまう。

 この、散乱しがちな子どもたちの注意を集めるために、ICT教育、アクティブラーニングとして脚光を浴びているものは、たぶん大きな効果を持っているだろう。もちろんそれらは、目先の注意を引くだけのものではなく、これからの新しい時代の可能性を追究するために、教育の重要な方向性を指し示していると、私も考えている。

 しかし、「国語のアクティブラーニング」は、目新しい手法の中にではなく、言葉そのもの、文章そのものの中にあるのだということを、今年は呼びかける年にしなければならないとも考える。昨年から手がけている新機軸を、大きく進発させる年にしたいものである。
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