言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.307 時代をつなぐもの

2021年08月21日

 今日は令和3年、2021年8月21日である(私自身の必要のために記しておくが、土曜日だ)。28年前、すなわち1993年(平成5年)のこの日に、藤山一郎先生が亡くなられた。当時30歳だった私にとって、それはずっと迎えたくないと念じつづけていた、太陽のごとき藤山先生との、永の別れの日であった(一般に知らされた、つまり私がその報に接したのは、2日後の8月23日のことだった)。

 今日、この日を迎え、日付が変わる時間を前にして一文をしたためるにあたり、心に思うことがある。それが表題の、「時代をつなぐもの」ということだ。

 私は1963年(昭和38年)2月の生まれで、現在58歳である。藤山一郎先生は、1911年(明治44年)4月のお生まれで、亡くなられたのは82歳の時であった。その時私は名古屋に住んでいたが、藤山先生のご逝去が伝えられ、ご葬儀の日程と、お通夜の前にもご自宅に設けて下さった祭壇にお花を捧げにうかがうことができると知り、仕事を半日で切り上げて弔問にお邪魔した(この点で、昨年からのコロナ禍のため、慕う方とのお別れの時を持てない今日は、ことに「ファン」である人たちにとって、つらいことだと思う)。

 弔問におうかがいした日のことは、以前も書いている。だから今日は、この一日、いろいろ思い返していて、今私の心を占めている一曲について、述べたいと思う。それは1947年(昭和22年)に先生がお歌いになった、『浅草の唄』(サトウハチロー作詞、万城目 正作曲)についてである。

 じつは『浅草の唄』は2曲あり、戦前の1933年(昭和8年)にも、西城八十作詞、中山晋平作詞の同名の歌を藤山先生が歌われている。その意味ではこの歌のタイトルそのものが、時代をつないでいるのだが、私が今日お話ししたいのは、戦後のサトハチロー作詞、万城目 正作曲の歌についてである。また私自身の個人的な思い出に属するものであることを、お断りしておきたい。

 これも以前に当ブログ(コラム)で書いたことだが、私は高校3年くらいから、当時「懐メロ」と言われていた昭和前期の流行歌が好きで、少しずつその年代の歌を覚えては、自分でも歌うようになっていた(10年ほど前から少々YouTubeへの投稿もさせていただいている)。そのような青春時代に慕い、憧れるようになったのが、藤山一郎先生であった。今でこそ40年、50年前の音源(さらに画像)をネット上で視聴することもたやすいが、40年前、私が大学に入った頃は、ラジオのFM放送から録音するのが、もっとも身近に、古い時代の流行歌を手元で聴くことのできる方法だった。また著名な歌い手のヒット曲は、戦前のものでも、LPレコードに収録されていて、当時はまだ中古版なら、SP版からの復刻のものも手に入る時代であった。私はSPレコードそのものを再生できる蓄音機を購入するまでのことはできなかったが、SP復刻版を含め、当時入手した藤山先生のLPレコードを3枚ほど、現在も所有している。

 そんな二十代のある日、FMラジオからの録音であったが(エアチェックと呼ばれていた)、先述したサトウハチロー作詞、万城目 正作曲の『浅草の唄』(昭和22年=1947年の方)を、私は手に入れたのである。1980年代後半のことだ。当時の浅草は、今(2019年まで)のようにはにぎわっておらず、それゆえ『浅草の唄』(戦前版・戦後版を問わず)の情緒を、多分に残していたように思われる。その浅草に、私はしばしば足を運んでいた。浅草の町が伝えてくれる情緒に、強く惹かれていたのだろう。そんな私を、たずねるたびに浅草は、やさしく迎えてくれるようだった。

 だから私が、録音することのできたサトウ・万城目版の『浅草の唄』をすぐに覚え、折にふれ歌うようになったのは、自然なことだった。そして数年たってから、今は鬼籍に入られて長いこともあるためお名前を挙げさせていただくが、(短)歌誌『心象』の重鎮であられた岩崎勝三氏に仙台でお目にかかった際、駅ビルの中の飲食店の隅の方の席で、私は『浅草の唄』を歌わせていただいたのである。店員さんがそっと見に来たようだったが、様子を見ると何も言わずに下がってくれ(後で詫びを言ったのは当然のことである)、そして岩崎氏は、大いに喜んで下さった。氏はお若いころ浅草に住んでおられ、そのことをお書きになったご著書(随想集『さよならの前に』、同『増補 さよならの前に』)を、拝読してもいたのであった。そして氏は、藤山先生よりいくつかお若い、大正のお生まれでいらした。

 年代だけから数えれば、岩崎氏は私などよりはるかに上の年代で、藤山先生とほぼご一緒の年代の方である。しかしお生まれが大正であることと、岩崎氏から文庫本の、藤山一郎著『歌声よひびけ南の空に』をいただいたことが、私の藤山先生への敬慕と理解を深め、今また若い人や、子どもたちにも、明治、大正のことを伝えるバックボーンとなっていることを思い合わせると、岩崎氏から私が受け継いだものの大きさと、それを与えていただいた私が「時代をつなぐ」役をも受け取っていることを、思わずにいられない。まだまだこれから、私が若い頃多くのことを教えていただき、救っていただいた先人のお教えを、このあとの時代の若い人たちに伝えるべく、「時代をつなぐ」ことを、私のつとめとして再認識しようと考えた、8月21日であった。

令和3年(2021年)8月21日
小田原漂情


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Vol.306 未来に対する希望と責任を

2021年08月15日

 今日は正午の時報とともに、全国戦没者追悼式のテレビ中継にあわせて黙禱した。昨年、戦後75年の時が過ぎ去り、さらなる四半世紀に向けての見解を述べたのだが、また1年が過ぎ、今年は戦後76年を数える年となった。今日に先立つ8月6日の広島と、9日の長崎の平和祈念式に際しては、被爆された方の総数が14万人を下回ったということが報じられていた。あの戦争そのものを知る年代の方たちも、同様に少なくなっていることが明白だということを思い、今年はまたあらたに深く考えさせられた。

 単純に年齢の数字だけで考えても、1945年8月15日の終戦時に生まれていた方が76歳以上、ある程度の記憶のある方ならばおそらく80歳以上、ということになる。長崎の平和祈念式典では92歳の被爆者の女性が「平和への誓い」を語られ、長崎市長による長崎平和宣言では、93歳で亡くなられた修道士の言葉が紹介された。終戦時に青年期以上の年齢だった方たちは90歳を越えられているのだから、広島でも長崎でも、若い世代の「受け継ぐ覚悟」に焦点が当てられていたことは、大事なことだと思う。

 そしてまた私自身も、戦後50年の年から「あの戦争について書く」ことを自らに課して来て、昨年さらに一歩あゆみを進めることを、表明した身である。年齢から言えば私も現在58歳であり、戦後76年、その年に生まれた方が現在76歳であるという年代の計算の上から言えば、すでに「上の方の年代」に入っていることは間違いない。直接戦争を体験したわけではないけれど、われわれの国の過去の戦争に関しては、直接経験した方々の率直な思いを多く見聞して来た年齢である。しかも年齢ばかりでなく、どのようなことを見聞し、何を受け止めたかということから言えば、多くの方の痛切な思いを、肉親や短歌の師と先輩方、さらに文学作品や流行歌、そのほか歴史を伝える文献・資料(この点では、特に昭和40、50年代のもの)などと、真摯に対峙してきた自負をも持つものである。

 「深い反省」という表現を、今日の陛下のお言葉からもはっきりお伺いすることができた。時の政権担当者の立場や主観で、そのことについて姿勢が左右されることがあってはなるまいと、私は長く考えつづけて来た。しかし誰が政権を担当するかの仕組みと結果次第で、それがないがしろにされるのであれば、政権担当者の発する言葉に、もはや大きな意味はあるまい。私たち国民一人一人が、歴史と向き合い、現在を越えた未来に対して希望と責任を持ちつづけ、行動することにしか依るすべはないのだと、考えさせられたたこの日であった。

令和3年(2021年)8月15日
小田原漂情
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Vol.305 「当事者」の覚悟を持つこと

2021年08月09日

 今日は長崎平和祈念式典をテレビで見てから出社した(ここ数年、8月6日と9日は午前中に夏期講習の授業を入れないようにしている)。長崎ではこの1年に亡くなられた被爆者の方が3,202人、これまでに奉安された、名簿に記された人の総数が189,163人に上ったという。

 例年通りの印象的な「献水」(水を求めながら亡くなられた方たちに清らかな水を捧げる)や児童合唱のほか、「平和への誓い」を、被爆当時16歳で、現在は92歳でいらっしゃる岡 信子さんが述べられた。凛としたお声で、当時の詳しい状況を語って下さり、強く胸に迫るものがあった。

 また、田上富久市長の長崎平和宣言では、93歳で世を去られたカトリック修道士、小崎登明さんの遺された言葉が紹介された。長崎市ホームページに掲載されている長崎平和宣言から、その全文を引用させていただく。

 <世界の各国が、こぞって、核兵器を完全に『廃絶』しなければ、地球に平和は来ない。
 核兵器は、普通のバクダンでは無いのだ。放射能が持つ恐怖は、体験した者でなければ分からない。このバ
 クダンで、沢山の人が、親が、子が、愛する人が殺されたのだ。
 このバクダンを二度と、繰り返させないためには、『ダメだ、ダメだ』と言い続ける。核廃絶を叫び続け
 る。
 原爆の地獄を生き延びた私たちは、核兵器の無い平和を確認してから、死にたい。>

 「世界の各国が、こぞって、核兵器を完全に『廃絶』」するために、今年「核兵器禁止条約」が発効した。が、核保有国に加え、日本もこの条約を批准しておらず、せっかく成立した条約の実効性に疑問符がつけられている。だが、田上市長の長崎平和宣言は、明快に次のように述べたのである。

 <この生まれたての条約を世界の共通ルールに育て、核兵器のない世界を実現していくためのプロセスがこ
 れから始まります。来年開催予定の第1回締約国会議は、その出発点となります。>

 そして、日本国政府と国会議員に対し、「第1回締約国会議にオブザーバーとして参加し、核兵器禁止条約を育てるための道を探」ること、さらに「一日も早く核兵器禁止条約に署名し、批准すること」を、はっきり「具体的に」求めたのである。具体的とは、こうしたことを言うのである(6日の首相あいさつ中の「具体的」「現実的」に対して)。

 さらに長崎平和宣言は、昨年からの世界のコロナ禍に関連し、「危機を乗り越えるためには、一人ひとりが当事者として考え、行動する必要があることを学びました。」と述べている。やはり今日8月9日も、ひとりひとりが考え、行動することが重要なのだということが、結論として受けとめられた。しかも長崎平和宣言は、「当事者として」考え、行動することを求めている。私も今までの歩みを点検し直し、さらに具体的に歩をすすめるべきであると思い至った、今年の長崎平和祈念式典であった。

令和3年(2021年)8月9日
小田原漂情



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