1992年(平成4年)からだから、もう三十年近く、毎年いろいろな形で表明していることだが、今日10月26日は灰田勝彦先生のご命日であり、毎年私は、この日に感謝の思いをささげて来た。お亡くなりになったのは1982年(昭和57年)、今から39年前のことである。当時私は19歳、大学2年生だった。
今となっては遠い記憶の彼方のことであるが、当時の私は青春の痛みに溺れかけていて、わずかな救いを求めてその頃「懐メロ」とされていた昭和二十年代までの流行歌に、のめりこんでいた。好んだ歌の大半は悲しい、酒をすすめる歌だったから、いつか私は、「灰田勝彦さんの『新雪』のような明るい歌を覚えよう」と考えるようになっていた。ところがその矢先の10月26日に、灰田先生はお亡くなりになってしまったのである。
大きな衝撃を受けた私は、すぐにレコードプレーヤーと灰田先生のレコードを買い求め、まず『新雪』から、『鈴懸の径』、『森の小径』などを練習し、覚えて行った。しかしファルセット(裏声)を必要とする『アルプスの牧場』だけは、はじめは無理だと思ったのだが、灰田先生の明るい世界を知るにつけ、「何とかあの歌を歌えるようになりたい」という思いが強くなる。本当の手さぐり、見よう見まね(聞きよう聞きまね?)でもがくうち、2ヶ月後には何とか裏声らしきものが出るようになり、3ヶ月ほどで「アルプスの牧場」が歌えるようになったのだった。
「新雪」や「アルプスの牧場」を歌えるようになったことで、私の人生は変わった。人前で明るくふるまうことができるようになったのはもちろんだが、そればかりでなく、「人間性の明るさ」までも、私は手に入れることができたのである。今、塾を経営していて、子どもたちに、「人間は変わることができるんだ」と力強く言えるのも、このときの経験、いや灰田勝彦先生のおかげに他ならない。19歳で生まれ変わった私の19年サイクルは、今3周を終え、4周目に入ったところだ。少なくともこの4周目の間は、今手がけている仕事を大成させるべく、力強く生き抜こう。そんな決意をさせていただいた今日、2021年(令和3年)10月26日は、三十九年分の感謝を込めて、灰田先生が1954年(昭和29年)に歌われた「白銀の山小舎で」(作曲はお兄様の灰田有紀彦先生)を歌わせていただいた次第である。
https://www.youtube.com/watch?v=1gfwVje_ENk 白銀の山小舎で
令和3年(2021年)10月26日
小田原漂情
言問ねこ塾長日記
言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。Vol.308 感謝と誓いとを
2021年10月16日
自分自身が年齢を重ねて来ると(還暦まであと1年とすこし)、ものごとの見え方、とらえ方が、ずいぶん変わって来るものだと感じる。故灰田勝彦先生が亡くなられた1982年(昭和57年)10月26日、私は大学2年生で、満年齢では19歳だった。
そして勝彦先生のお兄様でいらっしゃる、故灰田有紀彦先生が亡くなられたのは、1986年(昭和61年)10月16日のことである。35年が経過して、今日がご命日だ。その時は23歳だった。信州蓼科の貸別荘の一室で、上司や同僚を前にして「鈴懸の径」「森の小径」などを歌った覚えがある。その当時でも、二十代前半の若僧が灰田先生ご兄弟の歌に親しんでいて、折にふれて歌わせていただくということは、めずらしく、奇異の目で見られることも多かった。現在のようにネットで40年、50年前の歌が気軽に見つけられる時代ではない。当時まだFMラジオでなら、時おり特集番組が組まれることもあったけれど、「なつメロ」は盆暮れのテレビ放送以外、苦心してさがさなければ手に入れることのできない、貴重なコンテンツだったのである(灰田先生ご兄弟、特に有紀彦先生には、ハワイアンを日本に伝えて下さった特筆すべきご功績があり、「なつメロ」のくくりだけにおさめてしまうことはできないのだが、本稿で過去にいく度か紹介させていただいているため、今日はこの記述のみにとどめさせていただく)。
19歳だった1982年、23歳だった1986年、そのどちらも、私は無限の未来を持っている若者で、人生の終わりなどはまったく考えていなかった。40年近く経った現在も、まだ還暦にはすこし間があるし、幕引きが近いなどとは毛頭考えていない。しかし場合によっては、不測のことがあっても不思議はないという諦観が、40年前と違って身近に感じられるようになってはいるであろう。また、そろそろ「子どものような」というよりは「孫のような」と言った方が良い年代の子どもたちと毎日接していて、自分自身の年齢を如実に感じることも多くなっている。
ところで1982年、19歳の頃の私は、時間的に無限の未来は持っていたかもしれないが、精神的には、青春の痛みにおぼれかけている若者でもあった。それがたとえば今、子どもたちに、「失敗は取り返せる、自分を変えることもできる」と心底から語れるのは、1982年以降、灰田先生ご兄弟の明るい歌を学び、歌わせていただくことで、自分自身が文字通り「生まれ変わった」からにほかならない。ことに先述の「痛み」を昇華させてくれたのが有紀彦先生ご作曲の「森の小径」であり、勝彦先生のファルセットの歌声であったことを思う時、ご兄弟への感謝の思いは、どれほど汲んでも尽きることがないのである。
今日10月16日、その感謝の思いをあらためてここに記し、かつて私の人生を救って下さった佳曲の数々を伝えて行くことを、自分自身にも誓っておきたいと考える。
令和3年(2021年)10月16日
小田原漂情
そして勝彦先生のお兄様でいらっしゃる、故灰田有紀彦先生が亡くなられたのは、1986年(昭和61年)10月16日のことである。35年が経過して、今日がご命日だ。その時は23歳だった。信州蓼科の貸別荘の一室で、上司や同僚を前にして「鈴懸の径」「森の小径」などを歌った覚えがある。その当時でも、二十代前半の若僧が灰田先生ご兄弟の歌に親しんでいて、折にふれて歌わせていただくということは、めずらしく、奇異の目で見られることも多かった。現在のようにネットで40年、50年前の歌が気軽に見つけられる時代ではない。当時まだFMラジオでなら、時おり特集番組が組まれることもあったけれど、「なつメロ」は盆暮れのテレビ放送以外、苦心してさがさなければ手に入れることのできない、貴重なコンテンツだったのである(灰田先生ご兄弟、特に有紀彦先生には、ハワイアンを日本に伝えて下さった特筆すべきご功績があり、「なつメロ」のくくりだけにおさめてしまうことはできないのだが、本稿で過去にいく度か紹介させていただいているため、今日はこの記述のみにとどめさせていただく)。
19歳だった1982年、23歳だった1986年、そのどちらも、私は無限の未来を持っている若者で、人生の終わりなどはまったく考えていなかった。40年近く経った現在も、まだ還暦にはすこし間があるし、幕引きが近いなどとは毛頭考えていない。しかし場合によっては、不測のことがあっても不思議はないという諦観が、40年前と違って身近に感じられるようになってはいるであろう。また、そろそろ「子どものような」というよりは「孫のような」と言った方が良い年代の子どもたちと毎日接していて、自分自身の年齢を如実に感じることも多くなっている。
ところで1982年、19歳の頃の私は、時間的に無限の未来は持っていたかもしれないが、精神的には、青春の痛みにおぼれかけている若者でもあった。それがたとえば今、子どもたちに、「失敗は取り返せる、自分を変えることもできる」と心底から語れるのは、1982年以降、灰田先生ご兄弟の明るい歌を学び、歌わせていただくことで、自分自身が文字通り「生まれ変わった」からにほかならない。ことに先述の「痛み」を昇華させてくれたのが有紀彦先生ご作曲の「森の小径」であり、勝彦先生のファルセットの歌声であったことを思う時、ご兄弟への感謝の思いは、どれほど汲んでも尽きることがないのである。
今日10月16日、その感謝の思いをあらためてここに記し、かつて私の人生を救って下さった佳曲の数々を伝えて行くことを、自分自身にも誓っておきたいと考える。
令和3年(2021年)10月16日
小田原漂情