今年の3月、長崎を訪れた。27年ぶりのことである。稲佐山のホテルに一泊し、翌日は原水爆禁止長崎会議のお仕事に携わっておられる方にご案内いただいて、原爆資料館から平和公園、故永井隆博士の如己堂(にょこどう)や山里小学校、城山小学校を見て回った。
今日8月21日は、故藤山一郎先生のご命日である。お亡くなりになったのは1993(平成5)年のことだから、今年で29年になる。27年前に長崎を訪ねた時は、まだ亡くなられて2年に満たない頃であったから、私は長崎の被爆について学ぶとともに、先生がお歌いになった「長崎の鐘」を実地で歌うことを、大きな目的としていたのであった(その日も長崎は強い雨だった。だからその雨の中を歩きながら、幾度も繰り返し歌ったものである)。
「長崎の鐘」は、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲で、1949(昭和24)年に藤山一郎先生が歌われた。長崎医科大学の助教授(のち教授)として物理的療法科で放射線医学に携わり、そのため白血病を患っておられながら、原爆投下後は重傷の身を押して被爆者の治療に当たられた故永井 隆博士のご著書『長崎の鐘』に由来する曲名で、原爆の犠牲者を悼み平和を希求する佳曲である。永井博士の夫人はご自宅で原爆の犠牲となり、焼け跡からはご遺骨とロザリオだけが見つかったのだという。
藤山先生とサトウ、古関のお三方が病床の永井博士を見舞われた際、博士は「寝ながら、筆を執って」(ステージでの藤山先生談)、次の短歌を書かれたという。
あたらしき朝の光の射しそむる荒れ野にひびけ長崎の鐘 永井 隆
この歌に、藤山先生はご自身で曲を付けられて、ステージで「長崎の鐘」フルコーラスのあとに続けてお歌いになっていた(永井博士の短歌には、古関裕而作曲版もあるという)。その通り、私自身も機会のある時には歌わせていただいている。また、今も手もとにあるステージのビデオに、藤山先生の「讃美歌に近い、祈りの気持ちで歌っております」というお言葉が残されている。
藤山一郎先生に私が与えていただいたものは、これまで毎年、この日のブログにつづって来た。来年で先生が亡くなられてから30年になるが、どれほど時が経とうとも、その得がたい恵みがそこなわれることはない。今度は私が、お返しする番である。先生から頂戴した大きな恵みを、これからの若い人たち、未来を創る子どもたちのために。先人からいただいた恵みは、形を変えて後世の人たちに伝えていく。それがご恩に報いる唯一の道である。命ある限りお報いする、ということを、藤山先生は「長崎の鐘」に関連して述べていらした。微力ではあっても、私も同じ志を抱いてこれからの営為をすすめていきたい。
令和4(2022)年8月21日
小田原漂情
言問ねこ塾長日記
言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。Vol.313 今こそ「熟慮」が求められる
2022年08月15日
8月15日。77年前の昭和20(1945)年のこの日、正午から、昭和天皇の玉音(ぎょくおん)放送があったことから、わが国ではこの日が「戦争が終わった日」とされている。対外的には、同年9月2日、東京湾上の米戦艦「ミズーリ」号艦上での降伏調印式が正式な終戦であり、また、16日以降も陸海軍の最前線における一部の(「特攻」を含む)戦闘行為と、大陸や樺太(からふと/サハリン)などで虐殺や略奪、引き揚げに伴う筆舌に尽くしがたい苦労があって、命を奪われ、辛酸を嘗めた日本国民も多かったのだが、国をあげての戦争状態が終わったのがこの8月15日であることは、間違いないだろう。
77年前のこの日までに命を落としたとされる、民間人を含めたわが国の戦没者の数は、約310万人とされている。今日、令和4(2022)年8月15日に行なわれた「全国戦没者追悼式」で、戦後77年間迎えてきたこの日の「継続性」を感じさせたのは、天皇陛下の「過去を顧み、深い反省の上に立って」というお言葉であった。8月6日の広島、9日の長崎での平和祈念式典では、ある程度踏み込んだ「自分の言葉」で原爆の犠牲者への挨拶を述べた岸田現首相の式辞が注目されたが、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」という表現があっただけで、特にわが国の過去の歴史に言及する姿勢はみられなかった。前々任者の代で意図的に反省という方向の姿勢を出さなくなってから、前任者を含む現自民党(および公明党との連立与党)政権の立ち位置である(現職総理大臣の「反省」等の言葉の使用については、議論のかまびすしい問題であり、長年多様な変遷があり、直接的な言葉がずっと積極的に使われて来ていたのではない。前々任者の時に、「姿勢」も明らかに形としなくなったのである)。
言うまでもなく、現在の世界は、ロシアのウクライナ侵攻により大きな危機に直面している。つい先日、中国の発射したミサイルがわが国の排他的経済水域(EEZ)内に着弾するという由々しき問題もあった。畢竟(ひっきょう)、国防力強化の論調が強まり、防衛費のGDP比2%への増額や、「核共有」などという考えまでもが公言されるようになっている(後者については、本年8月9日の本稿で言及済み)。
だが、熟慮が求められるのは今この時であり、また、戦火に斃れた先人たちを偲ぶこの8月の、われわれ今を生きる者たちの放棄すべからざる責務であろう。岸田現首相は、9日の長崎の平和祈念式典における挨拶で、「核兵器使用の惨禍を繰り返してはならないと訴え続けてまいります」、と述べたあと、「長崎を最後の被爆地とし続けなければなりません」、「被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります」と明言した。しかしその翌日には、「期待に応える有事の内閣」と記者会見で述べている。9日の長崎での挨拶と、10日の記者会見の内容を、実際にはどのように現実化するのであろうか。一見矛盾するように思われるこの対極のことがらを、見事に両立させることができたならば、岸田氏は古今無双の大政治家と後世に認められるに違いない。
今こそ熟慮を求めたい。首相にも、今日、先人たちへの二心なき思いから参拝をした(のであろう)政治家たちにも。
令和4(2022)年8月15日
小田原漂情
77年前のこの日までに命を落としたとされる、民間人を含めたわが国の戦没者の数は、約310万人とされている。今日、令和4(2022)年8月15日に行なわれた「全国戦没者追悼式」で、戦後77年間迎えてきたこの日の「継続性」を感じさせたのは、天皇陛下の「過去を顧み、深い反省の上に立って」というお言葉であった。8月6日の広島、9日の長崎での平和祈念式典では、ある程度踏み込んだ「自分の言葉」で原爆の犠牲者への挨拶を述べた岸田現首相の式辞が注目されたが、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」という表現があっただけで、特にわが国の過去の歴史に言及する姿勢はみられなかった。前々任者の代で意図的に反省という方向の姿勢を出さなくなってから、前任者を含む現自民党(および公明党との連立与党)政権の立ち位置である(現職総理大臣の「反省」等の言葉の使用については、議論のかまびすしい問題であり、長年多様な変遷があり、直接的な言葉がずっと積極的に使われて来ていたのではない。前々任者の時に、「姿勢」も明らかに形としなくなったのである)。
言うまでもなく、現在の世界は、ロシアのウクライナ侵攻により大きな危機に直面している。つい先日、中国の発射したミサイルがわが国の排他的経済水域(EEZ)内に着弾するという由々しき問題もあった。畢竟(ひっきょう)、国防力強化の論調が強まり、防衛費のGDP比2%への増額や、「核共有」などという考えまでもが公言されるようになっている(後者については、本年8月9日の本稿で言及済み)。
だが、熟慮が求められるのは今この時であり、また、戦火に斃れた先人たちを偲ぶこの8月の、われわれ今を生きる者たちの放棄すべからざる責務であろう。岸田現首相は、9日の長崎の平和祈念式典における挨拶で、「核兵器使用の惨禍を繰り返してはならないと訴え続けてまいります」、と述べたあと、「長崎を最後の被爆地とし続けなければなりません」、「被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります」と明言した。しかしその翌日には、「期待に応える有事の内閣」と記者会見で述べている。9日の長崎での挨拶と、10日の記者会見の内容を、実際にはどのように現実化するのであろうか。一見矛盾するように思われるこの対極のことがらを、見事に両立させることができたならば、岸田氏は古今無双の大政治家と後世に認められるに違いない。
今こそ熟慮を求めたい。首相にも、今日、先人たちへの二心なき思いから参拝をした(のであろう)政治家たちにも。
令和4(2022)年8月15日
小田原漂情
Vol.312 二度と犠牲者を生まないために、核兵器廃絶を
2022年08月09日
今日は朝から快晴で、長崎の気温は11時前から30度を超えていたようだ。10時40分から平和公園で開かれた長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の中継を、岸田首相の挨拶まで確認してから出社した。午前の授業はなしにしていたが、13時からの授業を自分で持っていたためである。
今日の長崎の平和祈念式典では、今こそ厳しく受けとめなければならない言葉がふたつあった。
まず開会に先立って紹介され、式典の冒頭で歌われた、「被爆者歌う会ひまわり」の「もう二度と」の歌詞の中にある「もう二度とつくらないで 私たち被爆者を」という歌詞が、そのひとつである。平均年齢が84歳を越えている被爆者の方々(「ひまわり」の平均年齢は81歳)が、みずから「もう二度と、自分たちと同じ苦しみを持つ存在を作らないで欲しい」と訴えておられるのだ。しかもこの歌は、被爆者団体からの「被爆者を励ます歌を作ってほしい」との声を受けて作られたものだという。だから赤裸々に、「もう二度と作らないで わたしたち被爆者を」と歌い上げているのである。
そして田上富久市長による長崎平和宣言は、冒頭、1956年に初めて長崎で開かれた原水爆禁止世界大会で、登壇された被爆者の渡辺千恵子さん(勤労動員中に被爆され、下半身不随となられた)が、「世界の皆さん、どうぞ私を写して下さい。そして二度と私を作らないで下さい。」と澄んだ声で述べられたことを紹介した。学徒動員先の工場で崩れ落ちた鉄骨の下敷きになったために半身不随となったのが、16歳の時だったという。入場時には「写真に撮るのはやめろ!」「見世物じゃないぞ!」という声が上がり、会場は騒然となったそうだが、そのような場でうら若い女性が、自分を撮影し、二度と自分のような犠牲者をつくらないようにと呼びかけたのだという。
「被爆の実相」という言葉が、近年広島や長崎の式典で多く聞かれる。今日の長崎平和宣言で語られた渡辺千恵子さんの例もまた、まがうかたなき「実相」のひとつだろう。そして長崎平和宣言は、「長崎を最後の被爆地に」の思いのもと、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けると宣言した。
この「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、今ほど重く切実な意味を持つ時はない。言うまでもなく、ロシアのウクライナ侵攻に際し、プーチン大統領が核使用をちらつかせてウクライナを、また世界を恫喝したからである。もう二度と、「私を」、「わたしたちを」つくらないで下さい、という訴えを、まず誰よりもわれわれ日本人が真摯に受け止めなければならない。そして被爆の「実相」を知り、まだ知らない人たちに知らしめるよう、力を尽くさなければならないのだ。
今日の岸田首相の挨拶は、「核兵器使用の惨禍を繰り返してはならない」と訴え続けてまいります、と述べたあと、「長崎を最後の被爆地とし続けなければなりません」、「被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります」と明言した。これまでの首相の挨拶とは明確に異なるものである。長崎を最後の被爆地とするために、首相として、日本国として、どのように現実的な行動を取るのか、注視してゆく必要がある。
今年の春、長崎を27年ぶりに訪れた。知人を介して原水爆禁止長崎会議のお仕事に携わっておられる方にご案内いただくことができ、今日の平和祈念式典で「あの子」を生徒たちが歌った山里小学校、被爆校舎を残している城山小学校も見学することができた(「あの子」は毎年交代で、山里小学校と城山小学校の生徒たちが歌うのだという)。城山小学校の被爆校舎ははじめての見学であったが、ご案内のおかげで山里小学校の、「あの子」の歌碑なども見学、撮影することができた。
山里小学校 「あの子」歌碑
同 「あの子らの碑」
城山小学校 被爆校舎
同 案内板
長崎平和宣言は、核兵器が存在していること自体が、使用される危険と不可分のものであることを明言した。だから核兵器をなくすことが、地球と人類の未来を守るための唯一の現実的な道だというのである。その通りだと思う。従って、私は昨今国内で言われている「核共有」という考え方には、明確に反対する。
令和4(2022)年8月9日
小田原漂情
今日の長崎の平和祈念式典では、今こそ厳しく受けとめなければならない言葉がふたつあった。
まず開会に先立って紹介され、式典の冒頭で歌われた、「被爆者歌う会ひまわり」の「もう二度と」の歌詞の中にある「もう二度とつくらないで 私たち被爆者を」という歌詞が、そのひとつである。平均年齢が84歳を越えている被爆者の方々(「ひまわり」の平均年齢は81歳)が、みずから「もう二度と、自分たちと同じ苦しみを持つ存在を作らないで欲しい」と訴えておられるのだ。しかもこの歌は、被爆者団体からの「被爆者を励ます歌を作ってほしい」との声を受けて作られたものだという。だから赤裸々に、「もう二度と作らないで わたしたち被爆者を」と歌い上げているのである。
そして田上富久市長による長崎平和宣言は、冒頭、1956年に初めて長崎で開かれた原水爆禁止世界大会で、登壇された被爆者の渡辺千恵子さん(勤労動員中に被爆され、下半身不随となられた)が、「世界の皆さん、どうぞ私を写して下さい。そして二度と私を作らないで下さい。」と澄んだ声で述べられたことを紹介した。学徒動員先の工場で崩れ落ちた鉄骨の下敷きになったために半身不随となったのが、16歳の時だったという。入場時には「写真に撮るのはやめろ!」「見世物じゃないぞ!」という声が上がり、会場は騒然となったそうだが、そのような場でうら若い女性が、自分を撮影し、二度と自分のような犠牲者をつくらないようにと呼びかけたのだという。
「被爆の実相」という言葉が、近年広島や長崎の式典で多く聞かれる。今日の長崎平和宣言で語られた渡辺千恵子さんの例もまた、まがうかたなき「実相」のひとつだろう。そして長崎平和宣言は、「長崎を最後の被爆地に」の思いのもと、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けると宣言した。
この「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、今ほど重く切実な意味を持つ時はない。言うまでもなく、ロシアのウクライナ侵攻に際し、プーチン大統領が核使用をちらつかせてウクライナを、また世界を恫喝したからである。もう二度と、「私を」、「わたしたちを」つくらないで下さい、という訴えを、まず誰よりもわれわれ日本人が真摯に受け止めなければならない。そして被爆の「実相」を知り、まだ知らない人たちに知らしめるよう、力を尽くさなければならないのだ。
今日の岸田首相の挨拶は、「核兵器使用の惨禍を繰り返してはならない」と訴え続けてまいります、と述べたあと、「長崎を最後の被爆地とし続けなければなりません」、「被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります」と明言した。これまでの首相の挨拶とは明確に異なるものである。長崎を最後の被爆地とするために、首相として、日本国として、どのように現実的な行動を取るのか、注視してゆく必要がある。
今年の春、長崎を27年ぶりに訪れた。知人を介して原水爆禁止長崎会議のお仕事に携わっておられる方にご案内いただくことができ、今日の平和祈念式典で「あの子」を生徒たちが歌った山里小学校、被爆校舎を残している城山小学校も見学することができた(「あの子」は毎年交代で、山里小学校と城山小学校の生徒たちが歌うのだという)。城山小学校の被爆校舎ははじめての見学であったが、ご案内のおかげで山里小学校の、「あの子」の歌碑なども見学、撮影することができた。
山里小学校 「あの子」歌碑
同 「あの子らの碑」
城山小学校 被爆校舎
同 案内板
長崎平和宣言は、核兵器が存在していること自体が、使用される危険と不可分のものであることを明言した。だから核兵器をなくすことが、地球と人類の未来を守るための唯一の現実的な道だというのである。その通りだと思う。従って、私は昨今国内で言われている「核共有」という考え方には、明確に反対する。
令和4(2022)年8月9日
小田原漂情