言問ねこ塾長日記

言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。

Vol.317 40年間、ありがとうございました!

2022年10月26日

 今日10月26日は、灰田勝彦先生のご命日である。10日前、お兄様の有紀彦先生のご命日の時は、今年の10月は晴れの日が少ない、と書いたが、今日は雲ひとつなく晴れ渡り、澄み切った青空のもと、例年通りに、麻布十番にある勝彦先生のお墓にお参りさせていただいた。

 灰田勝彦先生がお亡くなりになったのは、昭和57(1982)年のこの日である。当時私は19歳、大学2年生だった。すでに昭和前期の流行歌が大好きだったが、酒の酔いに呑まれ、流されるような生活から、「新雪」など灰田先生の明るく健康的な歌を覚えたいと考えはじめた矢先のことだったのである。

 それゆえ、灰田先生がお亡くなりになったことの衝撃は大きかった。すぐにレコードと、当時自宅になかったレコードプレーヤーを買いに行き、一生懸命灰田先生の歌を練習した。「アルプスの牧場」のファルセットは出せるはずもなかったが、メロディーだけでも覚えようと思って練習するうち、どうしてもファルセットで歌いたくなって、2ヶ月あまり来る日も来る日も練習(挑戦)した。そのかいあって、真似事ながら何とか歌えるようになったのである。

 それまで自分の力で何かに挑戦し、結果を勝ちとったことがなかった私にとって、毎日ファルセットに挑んで何とかものにすることができた経験は、非常に大きなものだった。のみならず、それから二十代、三十代にかけて友人の結婚披露宴などで「アルプスの牧場」を歌ううち、私は「人間性の明るさ」というかけがえのないものを、灰田先生のおかげで身につけていたことに気づいたのである。

 明るさだけではない。灰田先生は、常に正しく、まっすぐに生きる方でいらした。例を挙げると、終戦後ビクターから決まった専属料を受け取らなかった(会社の復興に貢献するため)、野次を飛ばす酔客をステージに引っ張り上げてポカリとやった、楽屋で先輩に挨拶をしない若手の歌い手をしかりつけた、などなど、正義感にあふれたふるまいを数々残されている。また野球のチームでは常にエースで四番であり、「王選手にバッティングの講義をした」という逸話もある。

 明るく、正しく生きること。そして人間性の明るさが、私が灰田勝彦先生に与えていただいた大きな大きな財産である。私はまもなく満60歳、還暦を迎えるが、60年の人生の中の40年を、灰田先生のおかげで正しく生きてくることができたのである。その40年分の感謝の思いを、今朝ほどお墓参りにうかがって、ささげて来た。そして40年という大きな節目であるから、今日は「東京の屋根の下」と「水色のスーツケース」の2曲を歌わせていただき、YouTubeにアップした次第である。

https://www.youtube.com/watch?v=_gECj5a34V8&t=10s 東京の屋根の下

https://www.youtube.com/watch?v=5tjRt49n7As&t=276s 水色のスーツケース

 今日書いた内容のほとんどは、30年前に出版した拙著『遠い道、竝に灰田先生』に書いてあることでもある。しかし同署の刊行からでさえ30年も経っているし、先生が亡くなられて40年という大きな節目の日であるから、改めて当時のことを書かせていただいた。そして最後にひとこと、この場において、灰田先生への感謝の思いを述べることを、おゆるしいただければ幸いである。

 灰田先生、40年間、ほんとうにありがとうございました。

令和4(2022)年10月26日
小田原漂情
posted by hyojo at 23:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.316 豊かな美しいメロディーと・・・

2022年10月16日

 秋晴れの日が少ない10月である。1日、2日の土日はよく晴れていたが、日差しが強すぎ、気温も30℃近くまで上がって、夏が戻って来たような陽気だった。それからは雨模様の日が多く、澄んだ空気に透き通るような青空を、私は目にしていないように思う(言問学舎は建物の構造上、地下1階に位置しているため、一度出社してしまうと、夕方子どもたちが登塾するまで、外の様子を見ないことが多いためもある)。

 今日は快晴とはいかなかったが、夕刻までは雨も降らず、午後出かけた際は雲の切れ間から時おり青空を見ることもできた。わずかながら、今日のこの日にふさわしい秋の空を眺めることができ、心安らぐものを覚えた。

 ハワイアンに詳しい方はご存じだと思うが、今日、10月16日は、「鈴懸の径」「森の小径」などの作曲者でいらっしゃる灰田有紀彦先生のご命日である。お亡くなりになったのが1986(昭和61年)のこの日であるから、今年で36年が経過した。私が「鈴懸の径」や「森の小径」を覚えたのは19歳の時だった。それから40年、私は有紀彦先生がこの世に送り出して下さった美しいメロディーに、ある時は救われ、ある時は友を思って、自身の存在の深い部分を託して生きてきたのだと思う。

 昨夜は学生時代の親友が岩手の山で採り、舞茸や山葡萄と一緒に送ってくれた栗を家内と二人で剝き、栗ご飯を炊いた。栗の皮を剝いている間、「鈴懸の径」のメロディーがずっと聞こえているようだった。そのため会社から持ち帰って来ていた仕事も今日に繰り延べ、昨夜は栗剝きが仕事のようなものであったが、ただ忙しくパソコンに向かうよりも、ずっと豊かな時間であったと思う。そのような豊かな時間を、灰田有紀彦先生の豊かな美しいメロディーが、静かに紡いでくれるのである。

 このような音楽と出会え、ずっと一緒に生きて来られたことは、掛け値なしに幸せなことだと思う。信じる道を歩む時に、いつも自分を支えてくれる、かけがえのないメロディー。いつまでもその魅力につつまれ、できれば若い人たちにも、その力を伝えていきたい。


2022(令和5)年10月16日
小田原漂情

 
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