言問ねこ塾長日記

言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。

Vol.340 「何事かを為す」ための責任と覚悟

2025年04月21日

 2月26日の本欄「人生を預かるなりわい」でご紹介した中川正壽老師のご大著『中川正壽随想録幷門あまね歌集 山を越え渓を渉る』がいよいよ明日出来となり、版元の飯塚書店さんへ納品される。言問学舎、すなわち私の手もとには、翌22日火曜日に届く手はずとなっている。

山を越え_カバー+オビ.jpg

 一度ご紹介した話なので、ざっと振り返ってみると、著者である中川老師から航空便でUSBメモリーを拝受したのが昨年8月だった。それより2か月ほどは、USBメモリーから原稿を起こし、読みとり、仕分けすることのみに費やした。3か月目から章立てをして作品を割り付けし、さらに本全体の構成を整えて、11月の下旬に、いつも本づくりでお世話になっているSさんにお願いして、飯塚書店の飯塚社長にお引き合わせいただいたのだった。

 年末になる前に、著者と打ち合わせ済みの原稿を飯塚書店さんに送稿し、実際の本づくりが動き出したが、想定外の苦労が始まったのは初校の校正刷りが出たあとだった。著者に校正刷りを送るのに、いろいろ下調べして検討した上で、ヤマト運輸の国際宅急便を利用したのだが(お恥ずかしい話だが、海外へ荷物を送るのははじめてだった)、最初の初校の便は到着までに10日もかかったのである。しかも途中、インドのベンガルール(旧名バンガロール)で5日間も止められていた。

 本づくりにおいては、版元と著者との間で二度ないし三度は校正のやりとりを必要とする。今回は版元と著者の間に私が入っており、私が構成に責任を持つポジションだったから、ドイツとの校正刷りのやりとりは初校、再校までとさせていただいたが(その後さらに2回、私と版元との間では校正を繰り返した)、ドイツとの航空便の行き来に、片道1週間〜10日を要したため、1か月超の時間が校正刷りの往来のためだけに費やされたのである。そして送稿以来4か月を経て、ようやく本の出来を迎えることとなった。本をつくる時はいつもそうだが、とりわけ今回は校正刷りの送付・受け取りに神経を使ったため、出来の喜びにも格別のものがある。

 いっぽう、「ひろく一般のみなさまへ」でお知らせしている通り、言問学舎の「真の国語」の出版物として、現在『スーパー読解「山月記」』の制作をすすめている。18日金曜日には、横浜の元町幼稚園まで、「山月記」文学碑の見学・撮影に赴いた。中島敦の名作『山月記』には私も高校2年の時に出会って魂を揺さぶられ、言問学舎をはじめてからは毎年のように高校2年生の生徒たちに指導して、深く親しんできたが、中島敦のことを改めて学ぶためにまず神奈川近代文学館に行き、さらに『中島敦研究』(筑摩書房、1978年)を購入して諸氏の研究を読んでいると、虎になってしまった李徴の慟哭が、中島敦その人の心の内奥からしぼり出されたものであったかとも受けとめられ、感じ入るところがある。私の年代からすると、中島敦という作家は高くそびえる孤高の大家であるように思われていたのだが(文学的な位置はその通りであると今も考えるが)、33歳で没した彼はその当時まだ「新人」であり、「道半ば」に至るよりもっと早く夭折した、薄倖の作家であったのだと再認識させられる。

 「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」とは、「山月記」の中で虎になった李徴が「口先」で「弄(ろう)し」ていたとする「警句」だが、昨年から今年にかけて、ただいま述べたような仕事を手がけてきて、「何事かを為す」ことのできる幸いとおそれとを、こもごも感じている。そして、「山月記」を若い人たちにより深く知らしめ手渡そうとする「何事か」のための重い責任を、それを果たす覚悟とともに負わなければならないと、己を戒める次第である。

山月記文学碑と➀.JPG
posted by hyojo at 01:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記