自分自身が年齢を重ねて来ると(還暦まであと1年とすこし)、ものごとの見え方、とらえ方が、ずいぶん変わって来るものだと感じる。故灰田勝彦先生が亡くなられた1982年(昭和57年)10月26日、私は大学2年生で、満年齢では19歳だった。
そして勝彦先生のお兄様でいらっしゃる、故灰田有紀彦先生が亡くなられたのは、1986年(昭和61年)10月16日のことである。35年が経過して、今日がご命日だ。その時は23歳だった。信州蓼科の貸別荘の一室で、上司や同僚を前にして「鈴懸の径」「森の小径」などを歌った覚えがある。その当時でも、二十代前半の若僧が灰田先生ご兄弟の歌に親しんでいて、折にふれて歌わせていただくということは、めずらしく、奇異の目で見られることも多かった。現在のようにネットで40年、50年前の歌が気軽に見つけられる時代ではない。当時まだFMラジオでなら、時おり特集番組が組まれることもあったけれど、「なつメロ」は盆暮れのテレビ放送以外、苦心してさがさなければ手に入れることのできない、貴重なコンテンツだったのである(灰田先生ご兄弟、特に有紀彦先生には、ハワイアンを日本に伝えて下さった特筆すべきご功績があり、「なつメロ」のくくりだけにおさめてしまうことはできないのだが、本稿で過去にいく度か紹介させていただいているため、今日はこの記述のみにとどめさせていただく)。
19歳だった1982年、23歳だった1986年、そのどちらも、私は無限の未来を持っている若者で、人生の終わりなどはまったく考えていなかった。40年近く経った現在も、まだ還暦にはすこし間があるし、幕引きが近いなどとは毛頭考えていない。しかし場合によっては、不測のことがあっても不思議はないという諦観が、40年前と違って身近に感じられるようになってはいるであろう。また、そろそろ「子どものような」というよりは「孫のような」と言った方が良い年代の子どもたちと毎日接していて、自分自身の年齢を如実に感じることも多くなっている。
ところで1982年、19歳の頃の私は、時間的に無限の未来は持っていたかもしれないが、精神的には、青春の痛みにおぼれかけている若者でもあった。それがたとえば今、子どもたちに、「失敗は取り返せる、自分を変えることもできる」と心底から語れるのは、1982年以降、灰田先生ご兄弟の明るい歌を学び、歌わせていただくことで、自分自身が文字通り「生まれ変わった」からにほかならない。ことに先述の「痛み」を昇華させてくれたのが有紀彦先生ご作曲の「森の小径」であり、勝彦先生のファルセットの歌声であったことを思う時、ご兄弟への感謝の思いは、どれほど汲んでも尽きることがないのである。
今日10月16日、その感謝の思いをあらためてここに記し、かつて私の人生を救って下さった佳曲の数々を伝えて行くことを、自分自身にも誓っておきたいと考える。
令和3年(2021年)10月16日
小田原漂情
言問ねこ塾長日記
言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。コメントを書く
この記事へのコメント
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/189070707
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック