大学3年生の秋ごろから、私は友人たちと飲んで就職の話になると、「俺はビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)を受けるんだ」と騒いでいた(当時、就職活動はだいたい4年になってから)。むろん、2年生の10月26日(昭和57年/1982年)に亡くなられた灰田勝彦先生をお慕いする気持ちからである。今でも親しく付き合っており、5年前には『たまきはる海のいのちを‐三陸の鉄路よ永遠に』の取材で仙台から宮古まで連れて回ってくれた親友は、「そういう強い気持ちがあれば必ず入れるよ」と言ってくれた。わけあって実際にビクターを受けることはなかったが、その後も灰田先生のレコードやCDを購入するたびに、ビクター音楽産業、のちにはビクターエンタテインメントの社名に、あこがれの気持ちを抱いて見入ったものである。
そのビクターエンタテインメント様から許諾をいただいて、本日は「野球小僧」(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲、灰田勝彦唄 1951年)を歌わせていただいた(佐伯孝夫作品はビクター専属楽曲で許諾が必要)。ご高配を賜り、かねて録画を予定していた今月23日の前日に、許諾のお知らせをいただくことができた。「野球小僧」は灰田勝彦先生ならではの名曲だが、何しろ灰田先生は、「王選手にバッティングの講義をした」という伝説をお持ちであり、ご自身の野球チームでは70歳になってもエースで4番を譲らなかったというほどの、熱狂的な野球好きでいらした。お亡くなりになった43年前、1982(昭和57)年10月26日も、朝方はお元気で、「1時になったら日本シリーズのテレビのスイッチを入れてくれ」と奥様におっしゃっていたのだと聞く。しかし容態が急変し、午前10時5分にお亡くなりになったのであった。
https://www.youtube.com/watch?v=tpceQqxSX1I 野球小僧 小田原漂情歌
灰田有紀彦先生、灰田勝彦先生に感謝の思いを捧げるのは毎年10月のならいだが、今年は加えて、6月に亡くなられたミスタープロ野球、長嶋茂雄さんへの感謝と追悼の思いをも、歌につづけての語りの中で述べさせていただいた。長嶋さんが、野球という枠を超えて日本の二十世紀後半の社会を明るくして下さったということは、つとに語られるところであるが、小学6年生の時に「わが巨人軍は永久に不滅です」の言葉を聞いて感激した私としても、まったくその通りであると考える。今年はぜひ、ビクターさんから許諾をいただいて「野球小僧」を歌わせていただこう、と決意したのは、長嶋さんが亡くなられてほどなくのことであった。
ちなみに灰田先生と長嶋さんは、別所毅彦さんを交えたお三方で、ステージに並んで立っておられるスナップが、早津敏彦さんの書かれた『灰田有紀彦/勝彦 鈴懸の径』の巻頭口絵ページに掲載されている。こよなく野球を愛しておられた灰田先生と、ミスタープロ野球と称された長嶋さんが、今ごろは天国で、灰田先生がピッチャー、長嶋さんがバッターで対戦しているのではないかと想像される。お二方とも数えきれないほど多くの人々に、夢を与えて下さったのである。
大リーグでの大谷翔平選手の活躍もあってか、現在の小・中学生たちの中にも、夢中で野球をやっている子どもたちがいるのはうれしい。長嶋さんのお言葉のままに、野球小僧も永遠にグラウンドを駆け回るのであろう。
令和7(2025)年10月26日
小田原漂情
言問ねこ塾長日記
言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。Vol.347 野球小僧は永遠に‐灰田勝彦先生と長嶋茂雄さん
2025年10月26日
Vol.346 ただ一つの花
2025年10月16日
今日10月16日は、灰田有紀彦先生のご命日である。お亡くなりになったのは1986(昭和61)年のこの日だから、今年で39年となった。
39年と言えば、一人の人間が「不惑」を迎えようという年月である。それほどの長い期間、「森の小径」や「鈴懸の径」に代表される、有紀彦先生の美しい灰田メロディーとともに生きて来られた私は、なんと幸せなのだろう。「森の小径」、「鈴懸の径」に代表される美しい灰田メロディーが、時として私を救い、慰め、そして前へ進む強い力を与えてくれた。これまでにもいく度か、この10月の文章として書かせていただいているが、有紀彦先生の美しいメロディーと、勝彦先生の力強い、まっすぐな歌声が、正しく生きる力を与えて下さったのだ。
3年前まで、私は毎年勝彦先生のご命日にお墓参りをさせていただいていたが、所沢の聖地霊園にあった有紀彦先生のお墓にも、一度お参りさせていただいたことがある。有紀彦先生のお嬢様に、お連れいただいたのである。恩愛を賜った先人を偲ぶ際、お墓参りをさせていただくのは、在世中にお目にかかることのできなかった後代の者にとっては、究極に近い追慕の営みと言っていいと思うが、それはお導き下さる方があってはじめてなしうることであると、改めて感謝の思いを深くしている。勝彦先生のお墓参りに伺うようになったのも、灰田ファンの大先輩のご依頼で同道したものであったが(これもお導きである)、その際もお嬢様に、お寺の所在をお教えいただいたのであった。
さて、前にも書いたことがあるが、灰田有紀彦先生の作品には、勝彦先生がお歌いになり、「ハワイアン風流行歌」と呼ばれた一群がある。昨年歌わせていただいた「アロハ東京」や「ハワイのセレナーデ」、そして「ただ一つの花」などである(ほかにも、原曲がハワイアンで有紀彦先生がアレンジされた名曲がたくさんある)。「ただ一つの花」は、一昨年の10月26日、勝彦先生のご命日に歌わせていただき、YouTubeにアップしている。有紀彦先生のご作曲で、モアナグリークラブ及び楽団ニューモアナを通じて先生ご兄弟とともに活躍なさった永田哲夫先生が作詞されたものである。永田先生には、1992年の10月26日に、当時赤坂にあった「白石信とナレオハワイアンズの店 タバ・ルーム」で『遠い道、竝に灰田先生』の出版を記念し灰田ご兄弟を偲ぶ会を開いていただいた際、お目にかかっている。
https://www.youtube.com/watch?v=K40Io8uZ_Bs&t=8s ただ一つの花 小田原漂情歌唱
ただ一つの花を胸に、ささやかな喜びを見出し、夢を持って生きた人々、灰田メロディーによって人生のしるべを見つけた人々が、おおぜいいた。私もその中の一人である。有紀彦先生のご命日であるこの日、今年もまた、先生に深い感謝を申し上げたい。
令和7(2025)年10月16日
小田原漂情
39年と言えば、一人の人間が「不惑」を迎えようという年月である。それほどの長い期間、「森の小径」や「鈴懸の径」に代表される、有紀彦先生の美しい灰田メロディーとともに生きて来られた私は、なんと幸せなのだろう。「森の小径」、「鈴懸の径」に代表される美しい灰田メロディーが、時として私を救い、慰め、そして前へ進む強い力を与えてくれた。これまでにもいく度か、この10月の文章として書かせていただいているが、有紀彦先生の美しいメロディーと、勝彦先生の力強い、まっすぐな歌声が、正しく生きる力を与えて下さったのだ。
3年前まで、私は毎年勝彦先生のご命日にお墓参りをさせていただいていたが、所沢の聖地霊園にあった有紀彦先生のお墓にも、一度お参りさせていただいたことがある。有紀彦先生のお嬢様に、お連れいただいたのである。恩愛を賜った先人を偲ぶ際、お墓参りをさせていただくのは、在世中にお目にかかることのできなかった後代の者にとっては、究極に近い追慕の営みと言っていいと思うが、それはお導き下さる方があってはじめてなしうることであると、改めて感謝の思いを深くしている。勝彦先生のお墓参りに伺うようになったのも、灰田ファンの大先輩のご依頼で同道したものであったが(これもお導きである)、その際もお嬢様に、お寺の所在をお教えいただいたのであった。
さて、前にも書いたことがあるが、灰田有紀彦先生の作品には、勝彦先生がお歌いになり、「ハワイアン風流行歌」と呼ばれた一群がある。昨年歌わせていただいた「アロハ東京」や「ハワイのセレナーデ」、そして「ただ一つの花」などである(ほかにも、原曲がハワイアンで有紀彦先生がアレンジされた名曲がたくさんある)。「ただ一つの花」は、一昨年の10月26日、勝彦先生のご命日に歌わせていただき、YouTubeにアップしている。有紀彦先生のご作曲で、モアナグリークラブ及び楽団ニューモアナを通じて先生ご兄弟とともに活躍なさった永田哲夫先生が作詞されたものである。永田先生には、1992年の10月26日に、当時赤坂にあった「白石信とナレオハワイアンズの店 タバ・ルーム」で『遠い道、竝に灰田先生』の出版を記念し灰田ご兄弟を偲ぶ会を開いていただいた際、お目にかかっている。
https://www.youtube.com/watch?v=K40Io8uZ_Bs&t=8s ただ一つの花 小田原漂情歌唱
ただ一つの花を胸に、ささやかな喜びを見出し、夢を持って生きた人々、灰田メロディーによって人生のしるべを見つけた人々が、おおぜいいた。私もその中の一人である。有紀彦先生のご命日であるこの日、今年もまた、先生に深い感謝を申し上げたい。
令和7(2025)年10月16日
小田原漂情
Vol.345「丘を越えて」、「青い山脈」こそ
2025年08月21日
今日8月21日は、藤山一郎先生のご命日である。お亡くなりになったのは平成5(1993)年のこの日だから、32年が経過した。
32年前のことや、今年も公開させていただいている「長崎の鐘・新しき」に関しては近年も複数回綴っているから、今日は藤山先生から賜わった大恩のうち、「明るい歌」について、お話ししたいと思う。
藤山一郎先生のデビュー曲は、昭和6(1931)年の「キャンプ小唄」である。つづく「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」が大ヒットし、さらに翌昭和7年には「影を慕いて」も大ヒットして、戦前の不動のスター歌手となられた。ただ、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)在学中のアルバイトであったことから、学校当局から大目玉をくらい、停学処分を受けたということも、有名な話である(もちろん本名の増永丈夫でなく藤山一郎の芸名だったが、音楽学校の先生には声でわかってしまった。しかしアルバイトの理由が家業を助けることであり、首席の優秀かつ勤勉な学生であったため、短い期間の、かつ実質的なロスの少ない停学で済んだのだという)。
私が藤山一郎先生の歌をはじめて(テレビを通して)知ったのは、おそらく「青い山脈」だったのだと思われる。昭和40年代後半(1971〜74年ごろ)、NHKの紅白歌合戦では、いつも最後に藤山先生が1番を歌われ、それから出場歌手全員がステージに集まって2番以降を一緒に歌う、というスタイルが定着していた(のちに「蛍の光」の指揮をなさる形になった。「蛍の光」についてのエピソードは、いつか改めてお話ししたい)。
さて、最初に知ったのは「青い山脈」だが、私が17、8の頃から昭和前期の流行歌を愛唱するようになって好んだのは、前出の「酒は涙か溜息か」、「影を慕いて」、また「青春日記」などである。これらはみな失恋した青年の心情を歌う、悲しい(今日のテーマとの対比で言えば「暗い」)歌であった。それが当時の自分にもっとも受け入れやすい歌だったからであるが、いっぽう藤山先生が「悲しい歌は明るく歌うものだ」とおっしゃったことについても、いつからか知るところとなっていた。
さらに、藤山一郎先生の本当のすばらしさは、「青い山脈」、「丘を越えて」、「丘は花ざかり」などの明るい歌にこそあるのだということを、先生もみずからおっしゃっていたし(真骨頂は「走れ跳べ投げよ」)、私自身もそのように感じるようになっていた。1997年に出版した私家版の歌文集『わが夢わが歌』には、次のように記してある。
<言葉を愛する上において、私は早くから先生の弟子であったことを高言できます。しかし歌の上でのこととしては、少々気持ちが弱くなるのを認めないわけには行きません。それは「青い山脈」のすばらしさを理解するのに、だいぶ時間がかかったからです。先生が亡くなられてからしばらくの間、私はこの歌を口ずさむたびに泣きました。こんなにすばらしい人生の讃歌を、どうして自分は心(しん)から理解していなかったか、これでは不肖の弟子ではないかと、そんな思いがこみ上げて、どうすることもできなかったのです。でも今はちがいます。堂々と胸を張って「青い山脈」が歌えるようになった証として、結婚の誓いの席で使わせていただくことをお許し下さい。>
(『わが夢わが歌』所収、「そして藤山先生へ」1997年3月7日脱稿)
今、私は子どもたちに胸を張って、正しく生きること、人生のすばらしさを教えることができる。それは藤山一郎先生のおかげである。自分自身が正しく、明るく生きていてこそ、子どもたちに誇りをもって、それを教えることができるのだ。「青い山脈」、「丘を越えて」、「丘は花ざかり」などの明るい歌が導いてくれた明るい人生、とりわけ藤山先生がお亡くなりになってからの32年間に感謝をこめて、明るい歌とともにある人生のすばらしさを、お伝えしたい。
令和7年8月21日
小田原漂情
追記 もちろん「明るい歌」ばかりでなく、藤山先生は、「長崎の鐘」、「新しき」という忘れがたい、こよなく深いものを残して下さいました。永井博士や長崎、広島で亡くなった方々を悼み、藤山先生への感謝をこめて、今後も毎年夏には「長崎の鐘・新しき」の公開をつづけさせていただきます。
https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y 小田原漂情歌「長崎の鐘・新しき」
32年前のことや、今年も公開させていただいている「長崎の鐘・新しき」に関しては近年も複数回綴っているから、今日は藤山先生から賜わった大恩のうち、「明るい歌」について、お話ししたいと思う。
藤山一郎先生のデビュー曲は、昭和6(1931)年の「キャンプ小唄」である。つづく「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」が大ヒットし、さらに翌昭和7年には「影を慕いて」も大ヒットして、戦前の不動のスター歌手となられた。ただ、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)在学中のアルバイトであったことから、学校当局から大目玉をくらい、停学処分を受けたということも、有名な話である(もちろん本名の増永丈夫でなく藤山一郎の芸名だったが、音楽学校の先生には声でわかってしまった。しかしアルバイトの理由が家業を助けることであり、首席の優秀かつ勤勉な学生であったため、短い期間の、かつ実質的なロスの少ない停学で済んだのだという)。
私が藤山一郎先生の歌をはじめて(テレビを通して)知ったのは、おそらく「青い山脈」だったのだと思われる。昭和40年代後半(1971〜74年ごろ)、NHKの紅白歌合戦では、いつも最後に藤山先生が1番を歌われ、それから出場歌手全員がステージに集まって2番以降を一緒に歌う、というスタイルが定着していた(のちに「蛍の光」の指揮をなさる形になった。「蛍の光」についてのエピソードは、いつか改めてお話ししたい)。
さて、最初に知ったのは「青い山脈」だが、私が17、8の頃から昭和前期の流行歌を愛唱するようになって好んだのは、前出の「酒は涙か溜息か」、「影を慕いて」、また「青春日記」などである。これらはみな失恋した青年の心情を歌う、悲しい(今日のテーマとの対比で言えば「暗い」)歌であった。それが当時の自分にもっとも受け入れやすい歌だったからであるが、いっぽう藤山先生が「悲しい歌は明るく歌うものだ」とおっしゃったことについても、いつからか知るところとなっていた。
さらに、藤山一郎先生の本当のすばらしさは、「青い山脈」、「丘を越えて」、「丘は花ざかり」などの明るい歌にこそあるのだということを、先生もみずからおっしゃっていたし(真骨頂は「走れ跳べ投げよ」)、私自身もそのように感じるようになっていた。1997年に出版した私家版の歌文集『わが夢わが歌』には、次のように記してある。
<言葉を愛する上において、私は早くから先生の弟子であったことを高言できます。しかし歌の上でのこととしては、少々気持ちが弱くなるのを認めないわけには行きません。それは「青い山脈」のすばらしさを理解するのに、だいぶ時間がかかったからです。先生が亡くなられてからしばらくの間、私はこの歌を口ずさむたびに泣きました。こんなにすばらしい人生の讃歌を、どうして自分は心(しん)から理解していなかったか、これでは不肖の弟子ではないかと、そんな思いがこみ上げて、どうすることもできなかったのです。でも今はちがいます。堂々と胸を張って「青い山脈」が歌えるようになった証として、結婚の誓いの席で使わせていただくことをお許し下さい。>
(『わが夢わが歌』所収、「そして藤山先生へ」1997年3月7日脱稿)
今、私は子どもたちに胸を張って、正しく生きること、人生のすばらしさを教えることができる。それは藤山一郎先生のおかげである。自分自身が正しく、明るく生きていてこそ、子どもたちに誇りをもって、それを教えることができるのだ。「青い山脈」、「丘を越えて」、「丘は花ざかり」などの明るい歌が導いてくれた明るい人生、とりわけ藤山先生がお亡くなりになってからの32年間に感謝をこめて、明るい歌とともにある人生のすばらしさを、お伝えしたい。
令和7年8月21日
小田原漂情
追記 もちろん「明るい歌」ばかりでなく、藤山先生は、「長崎の鐘」、「新しき」という忘れがたい、こよなく深いものを残して下さいました。永井博士や長崎、広島で亡くなった方々を悼み、藤山先生への感謝をこめて、今後も毎年夏には「長崎の鐘・新しき」の公開をつづけさせていただきます。
https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y 小田原漂情歌「長崎の鐘・新しき」










