言問ねこ塾長日記

言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。

Vol. 339 人生を預かるなりわい

2025年02月26日

 昨年夏から、やや異色の本の編集に携わって来た。45年前に単身ドイツへ渡られ、爾来お一人で、彼の地にあって禅を広めて来られた僧侶の方の、随想録と短歌・長歌をまとめた本である。書名を『中川正壽随想録幷(ならびに)門あまね歌集 山を越え渓を渉る』という。中川正壽が老師の僧侶としてのお名前であり、門あまねが歌人としての筆名である。

 編集に携わって来た、というのは、この本は言問学舎からの刊行ではなく、茗荷谷にあって歌集・歌書や句集・俳書をたくさん出版なさっている飯塚書店さんから出していただくからである。本の制作時期がちょうど受験期と重なることも理由の一つだが、中川老師の大著をできるだけ多くの方に読んでいただくため、歴史のある版元からの出版の方が望ましいだろうと判断したことの方が、より大きな理由であると言える。ドイツへの校正刷りの送付(とその往復)に事前想定より時間がかかっているが、桜の時期と前後する頃には、本の出来(しゅったい)をご報告することができるかと思う。

 中川老師の大著、と書いたが、老師は私より十五歳年長であられ、ヨーロッパにおける曹洞宗海外寺院たるアイゼンブッフ禅センター・大悲山普門寺を司る(創建され、経営なさっている)方である。たまたま老師の方から、私が家内と二人で立ち上げ、運営している文学サイト「美(うま)し言の葉」に短歌・長歌の添削を希望して来られたというご縁があったため、私が全面的に編集をお引き受けし、知人を介して飯塚書店さんに取り次いだ経緯があるが、『山を越え渓を渉る』の作品全篇を読んでいると、老師の七十七年のご生涯に深く親しみ、本づくりの上ではあたかもそのご生涯をお預かりしたように思われる。

 と同時に、私ごときが老師の「人生をお預かりする」などと言うと語弊があり、畏れ多いことなのだが、渾身の原稿に真向かい、それを一冊のまとまりある本に組み上げるということは、まさに著者の全人格と対峙する、真剣勝負の仕事なのだということを、再校まで(ほぼ)終えた段階で、如実に感じている次第である。

 もとより私は、言問学舎で多くのお子さんたちをお預かりしており、つねづねそれは子どもたちの人生を預かることなのだと任じている。受験が人生の進路の大きな部分を左右することももちろんだが、それ以上に、受験、そして勉強と向き合うあり方が人生の土台をつくり、さらに国語の力がその子の一生の力になるという立場から、一人一人の子たちの人生と密接なかかわりを持っているという自覚によるものだ。

 自分自身が人様の人生をお預かりする(注:その面がある、ということだ)に足る人間であるのか否かということを、問わないわけではない。むしろその自問は、私自身の生命のあり方自体の、不断にして永遠の問いであるだろう。生涯をかけてその問いと向き合い、答えをさがしつづけることを誓って、みなさまのご判断に俟つほかはない。『山を越え渓を渉る』と向き合った半年間が、私にその覚悟を与えてくれた。
                                           了

付:アイゼンブッフへゲラを送りし際に詠める歌3首

 ドイツへと荷を送るゆゑ二日三日調べあげたる国際宅急便

 アルプスを見はるかす寺の小路より歌はあふれて大冊をなす

 ケルンよりフランクフルトへ至れどもミュンヘンとほし師の寺はなほ


令和7年2月26日
小田原漂情
posted by hyojo at 18:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.338 教育機関の冥利と責務‐今回の漢検実施に際して

2024年11月16日

 昨日11月15日は、2024年度第2回漢検(準会場言問学舎で10月25日に実施)のWeb合格発表日であった。今回は近年になく18名の申し込みがあり(1名欠席で17名受検)、多くの受検者が合格したが、その中に、二十年以上検定をつづけて来た歩みにあって特筆すべき、うれしい合格があった。

 群馬県北部から7級(小学5年生相当)を受けに来てくれた小学2年生の子が、190点以上の高得点で、みごとに合格したのである。電話で問い合わせがあった時からずっと気にかかっていたので、いつも以上にこの日の合格発表を待っていて、昨日出社後、いの一番に確認した次第だった。合格確認後、すぐその子のお母さんに連絡したことは言うまでもない。

 その子が都内文京区まで漢検を受けに来てくれたのには、教育関係者として何とも表現しがたい事情があった。その子は、当初は通っている小学校で漢検が実施されるというので申し込み、一生懸命勉強していたのだという。ところが学校の方が、申し込み者が検定の最少実施人員に満たなかったため、実施を見送ることになってしまった。頑張って勉強したのに学校で受けられないこととなり、がっかりしているその子のために、親御さんが受検できる会場をさがしまわって、ネットで準会場言問学舎を見つけて下さったようだ。

 何とも表現しがたい事情、というのは、こういうことだ。各種検定には、「〇〇名から申し込み可」という最低実施人員のきまりがある。現在、漢検と英検は10名で、数検は3名だ。募集ツアーの最少催行人数のようなものだから、これはある意味必然的なことだろう。その前提で募集をしている学校が、「人数に満たなかったから実施見送り」の判断となるのも、やむを得ない。言問学舎では、1人でも受け付けたら必ず実施、と決めているから、本当に集客力が及ばなかった昔は学生アルバイト講師に無料で受けてもらうなど、不足の検定料は塾か私の持ち出しで実施したこともあるけれど、公立学校ではそうもいくまい。

 ただかわいそうなのは、子どもである。一生懸命勉強したのに、自分以外の原因、それも学校で受検者が足りないから試験そのものが行なわれないなど、本人にとっては理不尽以外の何ものでもないだろう。ご両親もお子さんの気持ちが痛いほどわかるから、わざわざ東京まで連れてきて下さることを決めたに違いない。CBTもあるとはいえ、中学生ならまだしも、小学校低学年の子ではPCを使って受検すること自体、漢字の勉強、国語の勉強として筋が違うように思われる。受検上の不利もあるだろう(そのためか、漢検では7級からがCBTの対象となっている)。

 言問学舎としては、そんなにも一生懸命漢字を勉強し、受検しようとしているお子さんの役に立てるのは、教育機関冥利に尽きる、うれしい話であった。だから時間など可能な限りの便宜を図り(7級はその子が間に合う時間に設定し、他の受検者に合わせてもらった)、歓迎した経緯がある。それゆえ特筆すべき、うれしい合格であったわけだが、各地で学校の生徒数が減少し、学校であってさえ10人の受検希望者があつまらないとは、良いとか悪いとかの問題でないだけに、本当に何と言っていいかわからない、複雑な心境だった。大都市部なら外部受検可能な準会場に行けるかも知れないが、そもそも準会場自体が存在しない地域も多いだろう(学校だけが、その可能性を持っている)。

 せめてもこうした事象に立ち会った教育者の責務として、漢検協会に電話して、来年以降、小学校の準会場については3名でも5名でも受検できるよう配慮していただくことはできないかと、お願いをした次第である。もちろん私どものできることにも限りがあるが、教育機関の一員として、困っているお子さんたちのためには今後とも能う限り力を注ぎたい。
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Vol.337 灰田メロディーは永遠に 2〜ご命日に「アロハ東京」を

2024年10月26日

 今日10月26日は、灰田勝彦先生のご命日である。お亡くなりになったのは昭和57(1982)年、私が大学2年生の時だったから、今年で42年を数えることとなった。先日、16日の有紀彦先生のご命日に、「灰田メロディーは永遠に」を書かせていただいたので、今日はその有紀彦先生ご作曲の灰田メロディーの傑作「アロハ東京」(昭和25年/1950年。門田ゆたか作詞)を歌わせていただいた。

 旧著で恐縮だが、先般もご紹介した拙著『遠い道、竝に灰田先生』の中で「アロハ東京」を紹介している稿の一部を引用させていただく。

 〈 (浜松町界隈の第一京浜と東京タワーについてふれた文章につづけて)この歌が作られた時、無論東京タワーはまだ出来ていないが、それはさておき、東京の中でも浜松町あたりの第一京浜付近の感じがもっともこの歌の雰囲気に合っていると思う。一帯にときおり訪れる不思議な静寂が、ものがなしいスチールギターの伴奏を呼びおこすのかも知れない。ハワイアンを日本に持ちこんだ灰田先生ご兄弟には、日本の流行歌に新味を加えた通称「ハワイアン流行歌」の諸作品があるが(先述「ただ一つの花」他)、この歌はその代表的なもののひとつである。昭和二十五年(一九五〇)一月。〉 注)引用文中、(先述「ただ一つの花」他)の「先述」は同書の中で「アロハ東京」の前に「ただ一つの花」を紹介していることを示しているが、YouTubeでも、昨年この「ただ一つの花」を歌い、公開している。
           『遠い道、竝に灰田先生』小田原漂情著 1992年10月26日画文堂版より引用

 ハワイアン風の曲であるから、哀愁を帯びたメロディーである。オリジナル原盤ではスチールギターの伴奏が印象的だ。収録されているLPレコード(ビクター創業50周年記念 オリジナル原版による懐しの歌声シリーズ)に記載はないものの、当時の状況から考えて、そのスチールギターの奏者は有紀彦先生だろうと思われる。私の年代では、有紀彦先生がステージで演奏なさっているお姿を拝見したのは、勝彦先生の特集のような番組などのわずかな機会に過ぎないが、オリジナル原版から採られたレコードやCDでは、スチールギターの魅力を知り尽くしておられたのであろうすばらしい音色を、たくさん聞かせていただいている。「灰田メロディー」は、有紀彦先生の旋律、勝彦先生の歌声、さらに有紀彦先生のスチールギターがそろってこそ、最高の魅力を発揮するのではないだろうか。私が二十歳の頃から愛してやまない「森の小径」も、前奏の有紀彦先生のスチールギターから、甘い夢の世界に引きこまれるのである。

 「灰田先生の歌を覚えたい、歌いたい」ということが、しるべを持たない若者だった私の人生のしるべとなり、「人間性の明るさ」というかけがえのないものまでもたらしていただいたということを、前掲書で述べているし、本稿でも折にふれ、語らせていただいた。しかしもっと端的に、美しい灰田メロディーと出会い、一心に歌わせていただいた私の人生そのものが、有紀彦先生、勝彦先生の大きな大きな恵みに支えられた、両先生の音楽の賜物だったのではないかと思えてくる。なお、先日有紀彦先生のお嬢様と電話でお話しさせていただく機会があり、「アロハ東京」を歌わせていただくことを申し上げたところ、お喜び下さった。

 そのささやかなご恩返しとして、「灰田メロディーは永遠に」ということを、これからもずっと歌いつづけ、語りつづける一人でありつづけたい。動画の中でも語らせていただいたが、そのことを、今年、令和6(2024)年の誓いとして、筆をおく。

https://www.youtube.com/watch?v=ZJZwcEz_ZyQ アロハ東京 小田原漂情歌


令和6(2024)年10月26日
小田原漂情
posted by hyojo at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記