言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.275 まる7年をかぞえて 

2018年03月11日

 今日14時46分、あの東北地方太平洋沖地震、東日本大震災の発生から、まる7年の時を迎えた。未だに7万人以上の方たちが避難生活を送っているという。報道の中で気になったのは、最愛の家族をなくした方たちの中においてさえ、「あの時のことを忘れないため」に、何かをしようとしているという内容の記事が見られたことである。

むろん、その当事者の方たちが気になるのではない。家族をなくした方たちでさえ、当時のことを忘れることがありうると感じるのだから、(私を含め)被災地以外に住んでいて、生活や身の回りの人々に被害がなかった人たちの記憶の中では、あの震災は遠い過去のことになってしまっているのではないかということが、気になったのだ。

 私自身は、書くことで、自分自身に何かを課することを習慣づけている。己の身の上に関することもそうであったし、あの震災のことに関しても、このブログのほか、いくつかの方法で書くことを、「忘れずにあるべき」手法として来た。

その意味で、今日は次の二つのことを記しておきたい。あれ以来ずっと不通であったJR山田線の宮古−釜石間がようやく復旧成り、来年3月から三陸鉄道に編入され運転再開されること、いま一つは常磐線の未開通区間も、再来年3月の全線運転再開をめざしているということである。

山田線宮古−釜石間が三陸鉄道となることで、現在の南リアス線盛から北リアス線久慈までが、三陸鉄道リアス線として統合されるという。三陸鉄道の経営という面から見ると手放しで喜ぶだけの話ではなく、厳しい予測や覚悟もあることだろうが、不通だった宮古−釜石間の運転が再開されることは、歓迎すべきだろう。途中に気仙沼線、大船渡線のBRT区間は存在するものの、三陸縦貫線が全線つながるのである。

そして常磐線の全線再開が果たされれば、震災で断たれた太平洋沿岸の路線がすべて、営みを再開するのだ。

このことに関して、私自身に何ができるかはわからない。しかし震災の直後にも、私は三陸の地への報恩を誓った。その時も、方法はやがて見出されるだろうと考えた。今もまた、何ができるかはわからないが、何をおいても書くことだけは怠るまい。そのことのみが、7年を迎えた今日、私の表明できることである。

2018年3月11日
小田原漂情
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Vol.274 恩師を思う

2017年11月09日

 11月、霜月。普段は受験が近づき、受験生を鼓舞する記事を多く発信させていただいているが、この季節はまた、「喪中」の知らせが届きはじめるときでもある。

 昨夜帰宅すると、中学の3年間、韻文学クラブで短歌をはじめ文学を広く教えて下さり、3年次には国語の授業でもご指導を賜った恩師の奥さまから、先生が2月にお亡くなりになったという葉書が届いていた。やはり、という思いに言葉を失う。毎年いただいている年賀状を、今年は目にしておらず、案じ申し上げていたのである。

 5年ほど前、鎌倉で、先生はご自分の絵の個展を開かれた。その際、妻とともにお邪魔して、お話をさせていただいた。私自身、直接お目にかかるのは、高校を卒業してはじめてのことだったかも知れない(高校時代に母校の文化祭に行き、当然韻文学クラブの教室に顔を出している)。先生はその時、「最近は文学からは遠ざかり、もっぱら絵ばかりを描いているよ」と教えて下さった。しかし、私が短歌あるいは韻文の韻律を学んだのは、このA先生がはじめてである。

 「韻文学クラブ」だから、必然と言えるのかも知れない。だが私にはいま一つ、自分が現在言問学舎で国語を教えていて、このA先生のお教えを如実に感じる瞬間があることを、先生への感謝の思いを書き記すためにも、ここで語らせていただきたい。

 <三代の栄耀一睡のうちにして、大門のあとは一里こなたにあり。・・・> 

 松尾芭蕉の『おくのほそ道』、「平泉」のくだりの冒頭である。このくだりは私自身、中学生の時から一字一句忘れたことのない、音韻のすぐれた名文であるが、実はいま、おもに中3生の子どもたちにこのくだりを音読して聞かせるとき、それを読む自分の根底にあるのは、四十年ほど前に中学校の教室でA先生が中3の私たちに読んで下さった、あの音調であることを感じとり、「師」の教えの大きさを身にしみて感じることがある。

 もちろん、私もその後四十年以上、いろいろな勉強をし、実際に平泉へ足を運びもして、さらに自分なりの工夫も加えているから、当時先生がお読みになったそのままの読み方をしているのだとは、考えていない。しかし、子どもたちの心をつかむよう、あるいは心にひびくようにと、思いをこめて音読するとき、私の耳の奥に聞こえているのは、あのときの先生のお声のように思えてならないのだ。

 また、5年前の先生のお顔をデジタルカメラのファイルの中から探し出し、私が先生を撮影させていただいた1枚を見つめると(ほかに2枚、家内が私と先生を写したものがある)、四十年前の中学生当時、授業中に「小田原!」と、読解の答えを求める視線を向けて下さったお顔そのままで、嗚咽をこらえることができなかった。その当時、「小田原は読解力がある」と授業中に皆の前でほめて下さったことも、国語に対しての自信を深めることになった経験として、忘れられない。

 私は小さな私塾の教師ではあるが、私自身に大きな国語の力を教えて下さり、強く生きる道を教えて下さった先生方が私に与えて下さったもの、それを今度は私自身が、一人でも多くの子どもたちに伝えて行くこと、そして子どもたちの国語の力をできる限り伸ばすことで、先生方のご恩に応えたい。そのことを改めて心に誓って、私に国語と文学、短歌の道を開いて下さったA先生に、感謝の思いをささげるばかりである。

 先生、ありがとうございました。





posted by hyojo at 15:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.273 10月26日、わが夢わが歌

2017年10月26日

 週末二度にわたっての台風と、昨日も雨だったので案じていたが、今日は秋らしい快晴の一日となり、灰田勝彦先生のお墓参りを無事にすませることができた。港区内にあるご墓所は日当たりが良く、差し上げたお水が午前の光にきらめいて、こちらの心も澄みとおるように感じられる。また一年、元気に生きてまいりました、今はこんな仕事を手がけています、など心中ご報告するならいも、もう十年以上になった(ご墓前でなく、この日に先生を思うことだけなら、35年間欠かしたことはない)。

 それから出社して、先生の「わが夢わが歌」を歌わせていただいた。佐伯孝夫作詞、服部良一作曲のこの歌は、昭和24年(1949年)7月に発売されたが、その12月に、灰田先生は結婚なさっている。奥様は、昭和15年(1940年)に知り合われたハワイ生まれのフローレンス・君子夫人で、戦時中は日本とハワイに離れ離れでありながら互いに思いを深めておられたが、戦後も4年経ってようやく結ばれることになったのだと聞く。

 この歌は、悲しみを伴わない、純然たる愛の賛歌である。戦争で結婚はおろか、行き来して会うことさえもできない苦しみの中に置かれながら、お互いを信じて待ちつづけた9年間は、どれほど長かったことだろう。そしてまた、晴れて君子夫人を日本に迎えることができるようになった時の先生の喜びは、いかほどのものであったろう(印象深い高峰秀子さんの述懐があるのだが、本日は引用をひかえさせていただく)。今日はお墓参りをしていて、墓碑の側面に彫られた奥様のお名前を拝見するうちに、この歌のことをどうしても紹介したいと感じた次第であった。

 先生が亡くなられて、今日で35年。かつて自分自身が生まれてから35歳に至るまでの悲喜こもごもの年月を思うと、その時間の長さが如実に感ぜられる。19歳の時からそれだけの長い時間を、灰田先生のおかげで私は生きて来ることができたのだという、感謝の思いとともに。今日はそのことをお話しして、35回目のこの日の結びとしたい。

 https://www.youtube.com/watch?v=_Sy8fT5Jk94 わが夢わが歌

posted by hyojo at 20:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記