言問ねこ塾長日記

言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。

Vol.326 鈴懸の径‐先達に感謝をこめて

2023年10月16日

 手もとに一枚のスナップ写真がある。37年前、私は満23歳で、季節はちょうど今時分、日付は入っていないが、10月19日か20日か、それくらいのことであったと思われる。場所は当時お世話になっていたリゾート開発会社の蓼科高原の貸別荘の一室だ。私はビール瓶を両手でマイクのように持ち、歌を歌っている。歌っているのは「鈴懸の径」だろうと思われる。

 それは1986年、昭和61年のことである。数日前の10月16日に、灰田有紀彦先生が亡くなられた。写真の日は、そのことをお聞きした当日か、翌日くらいのことであったろう。

 「鈴懸の径」は、灰田メロディーの代表的な曲で、歌唱だけでなくさまざまな形で演奏されて、世界的にも知られている。最初に発表されたのは、もちろん灰田勝彦先生の歌唱であり、戦中の1942(昭和17)年10月のことである。翌年(昭和18年=1943年)10月には学徒動員が開始される時勢にあって、明日の命も知れない若者たちが、友情と青春を愛惜して愛唱したという。

 また1982(昭和57)年10月26日に灰田勝彦先生が亡くなられた直後、この「鈴懸の径」の歌碑が立教大学構内に建立された。碑の正面の文字は勝彦先生の揮毫であり、先生は碑の除幕式を楽しみにしておられたという。11月に行なわれた除幕式には、お兄様である有紀彦先生が出席され、悲しみのコメントを述べられたのだが、それから4年後の同じ10月に、有紀彦先生も世を去られたのであった。

 さて、冒頭お話しした写真であるが、社会人になって2年目、蓼科高原で勤め先の紅葉狩りがあった時のものだと思う。私は観光事業部という、開発した貸別荘村の運営をする事業部にいたが、その夜は不動産営業部の社員が集まっている別荘の飲み会に参加していた。その席で、「灰田勝彦先生のお兄様の有紀彦先生がお亡くなりになりました」と発表して、「鈴懸の径」を歌ったのである。

 その席には、当時その会社の営業部門を引っ張っておられた取締役営業部長のOさんがいらした。他部門の若手である私には、ちょっと怖い、雲の上のような方だったが、Оさんは立教大学のご出身だったこともあってか、その日の「鈴懸の径」を気に入って下さった。

 私はその会社を満3年で退職したが、四半世紀ほどの時を経て、Facebookをはじめた頃、Оさんのお名前を拝見して、「私ごときが『友達』などとおそれ多いことですが」とMessengerでご連絡した上で友達申請をしたところ、「そんなことはまったくないよ」と承認して下さったのである。以来十年あまり、直接お目にかかる機会はなかったものの、Facebook上で折にふれて釣りのこと、山梨のことなどをお話しさせていただいてきた。

 そのОさんが急逝されたという連絡が、昨日、当時同期だった友人からもたらされた。つい先日、Facebookでお誕生日のお祝いを申し上げ、碓氷峠鉄道文化むらで拙著『小説 碓氷峠』を購入して下さったと、お知らせいただいたばかりである。はじめ、ご葬儀の次第が添付されているのを目にした時、それがОさんのご葬儀だなどとは、まったく思わなかった。お名前を確認した時も、信じられない、の思いしか浮かばず、まさに言葉を失ってしまったのであった。

 ふり返ると、会社でお世話になった頃、多くはない機会でありながら、教えていただいたことがたくさんある。入社一年目のことだったと思うが、八ヶ岳から帰京する際私が車を運転して、Оさんが助手席に乗って下さったことがある。小仏トンネルの手前だったか、上り線の渋滞に行き当たり、私は目と頭では渋滞を認めていながら、肝心の足が一歩遅れていた。するとОさんは短く、しかし強く「ブレーキ!」と促して下さった。私はすぐブレーキを踏んだのだが、役員をお乗せしているという意識からか、あるいは未熟ゆえか、ブレーキの踏み方が甘かった。そこへふたたび「もっと!」というОさんの注意があって、それから強くブレーキを踏み、それでもようやく渋滞の最後尾の少し手前で止まることができて、私は冷や汗をかきながら、Оさんに「ありがとうございました」とお礼を申し上げた。Оさんはただうなずくだけで、下手な運転をした私をとがめることなどなさらなかった。

 また、3年間勤めた会社を退職する際、その時観光事業部は経堂にあったので、八幡山の本社まで、役員への退職あいさつのため課長が同行して下さった。社長室のあと、Оさんの席に伺い、それまでのお礼を申し上げると、Оさんは課長に向かってひと言、「こういう奴を辞めさせると、お前が苦労するんだぞ」と言って下さり、私にも笑顔を向けて下さった。過酷とも言える業務についていた3年間だったが、離れた部署でも見ていて下さった方があるということを実感したそのお言葉は、長く私の会社員生活の自信となったものである。

 さらにFacebookでお付き合いをいただくようになってから、私が灰田先生の歌を歌わせていただき、Facebook上でお知らせすると、「私より一回り以上下の年代で、昔の歌をこんなに歌える人を知りません。」とのお言葉をいただいたこともある。大学を出てはじめて勤めた会社でお世話になった方は数多いが、直属の上司・部下の関係ではなかったけれども、Оさんは私にとって恩人と呼ぶべき存在のお一人だった。週末にご葬儀にお邪魔する予定にしてはいるが、何よりまずは、急ぎご冥福をお祈りする次第である。

 灰田有紀彦先生のご命日に、私の履歴上の恩人のことを書かせていただいたが、一貫して思うのは、人生のしるべを与えて下さった先人、先達への感謝の思いである。願わくは、私自身も後進に何かをもたらし、慕われる存在でありつづけたい。そうすることが、かつて恵みをいただいた先達の方々への、私なりの恩返しなのだと思うばかりである。

蓼科・鈴懸の径.JPG
恥ずかしながら、昔日の思い出のために

2023(令和5)年10月16日
小田原漂情

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Vol.325 「日の要求」‐森鷗外に学んだ塾のあり方

2023年09月13日

 今年春から、『スーパー読解「舞姫」』の制作作業に取りかかり、5月末の同書出来後は、ひきつづき『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』の制作にうつった上、さらに時節柄夏期講習の準備が重なって、大変慌ただしく、しかし充実した半年間を送って来た。

 この夏刊行した2冊とも、許可・許諾申請を要する箇所が多かったから、通常の本づくりよりも要する作業が多く、多忙をきわめた次第であった。

 その多忙な期間中、『舞姫』に関して鷗外に関する書物・資料を集めた中に、県立神奈川近代文学館特別展「森鴎外展―近代の扉をひらく」図録(2009年4月25日発行)があり、「日の要求」という言葉をふくむ一文に出会った。同書より鷗外の文章を引用する。

<日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑(ないがしろ)にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことができないだらう。
                                -「妄想」から>

 同書の小泉浩一郎氏の部門解説を参考にさせていただき、私なりに解釈してみると、「日の要求」とは、鷗外が自身の父・静雄に抱いた羨望、「市井の医者として日々の務めをこつこつと果(た)」し、「どんな患者にも全幅の精神をもって対」していた姿に見た、毎日毎日の仕事の要請に誠実に応える生き方と、静雄をそのようにあらしめた職業意識、その日常のことを言うのであろう。「妄想」から引用されている「自分はどうしてそういう境地に身を置くことができないだろう」という言葉に、鷗外の「羨望」の思いが如実にあらわれているのである。

 このくだりを読んだあと、『スーパー読解「舞姫」』を作りながら、私の心中には「日の要求」がずしりと大きな位置を占めていた。これこそが私のあるべき姿ではないか。すなわち私の、そして言問学舎の「日の要求」は、日々塾に学びに来てくれる子どもたちのために、持てる力を注ぎつくすことである。一日一日、子どもたちに真剣に対峙すること、それをおろそかにして、「真の国語」の完成もあり得ない。

 それ以来さらに力を入れ、中・高生を含めて音読を重ねている。鷗外の『舞姫』はもちろん、中島 敦の『山月記』 (以上高校生)、魯迅の『故郷』、井上ひさし『握手』、三浦哲郎『盆土産』、向田邦子『字のない葉書』(以上中学生)などである。

 文章の音読を通した「真の国語」の効用については稿を改め、「ひろく一般のみなさまへ」で近日中にお伝えさせていただきたい。

※音読、「真の国語」ともかかわりの深い歌唱「長崎の鐘」・「新しき」を、2023年9月19日までYouTubeで公開しておりました。同じ動画を、『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』付属の音読DVDにてご覧いただくことができます。
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Vol.324 改めての誓い

2023年08月21日

 1993(平成5)年、8月21日。そのころ私は、当時勤めていた会社で転勤したため、名古屋に住んでいた。土曜日だったその日は、当日に藤山一郎先生がお亡くなりになっていたことを知る由もなかった。

 週明けの月曜日に、新聞で訃報を知らされたのだと思う。ずっと藤山先生を「太陽のような存在」と仰ぎつづけていた私は、またその頃先生のご体調が芳しくないということを、陰ながら案じ申し上げていた。だから、永遠に来てほしくないと願っていた先生とのお別れの日が来てしまったことを、愕然としながら、かつ厳粛に受け止めた。

 その日は豊橋の書店さんと、翌年分の配本の打ち合わせのアポイントがあったのだと思う。翌日の火曜日がご葬儀ということだったが、その火曜日に上京することはできない状況だった。ただ藤山家ではご自宅で弔問を受け付けて下さっているということも、あわせて報じられていた。名古屋から豊橋まで、わずかに東京方向に身柄を移動させていた私には、打ち合わせを終えて名古屋へ戻ることは、どうしても考えられなかった。

 そこで豊橋から営業所に電話を入れ、その日の午後は半休を取って、昼過ぎに上りのこだま号で、東京へ向かったのである。地下鉄日比谷線で中目黒を過ぎ、東横線の祐天寺の駅前に降り立つと、慶応大学の学生さんたちが藤山家への案内に立ってくれていた。辻々に立つ学生服姿をたよりに藤山先生のご自宅へ向かう道すがら、頭の中では「東京ラプソディ」や「夢淡き東京」の先生のお声が、繰り返されていたように覚えている。

 ご自宅に伺った頃は、夕闇が迫りつつあった。予想されたことだが、弔問客は多く、玄関から順に先生のお柩(ひつぎ)と祭壇に導かれるようになっていた。ご自宅の中へお邪魔した時から、CDかレコードで流されている先生の歌声が聞こえていたが、感極まってお柩の前まですすみ、お顔を拝した時には「懐かしのボレロ」がかかっていた。その時の先生の歌声は、30年経った今日も、あざやかに思い出される。

 当時所属していた歌誌「歌人舎」平成5年11月号に追悼文を書かせていただいたのだが、そのうちの2か所を引用させていただきたい(引用は再掲した歌文集『わが夢わが歌』より)。
 
<先生の至言に、歌は正三角形でなければならないというお言葉がある。作曲、作詞、表現(歌い手)の三者が均等の力を持って対峙する、その緊張の上にのみすぐれた歌が成り立つのだというものである。同じく古関裕而、サトウハチロー、藤山一郎の見事な正三角の調和によりもたらされたのが、『長崎の鐘』(昭24)であろう。(後略)>

<(前略)たくさんの歌が脳裏をめぐってやまなかったが、新幹線が東京を離れるころ、ひとつの言葉がようやく私の心をまとめあげた。「長い間、ほんとうに、ありがとうございました」と。われわれが嘆き悲しむことを、決して先生はお望みにならないだろう。すべては私のこれからの、生きてある生き方においてお応えしてゆくほかはない。それだけが、今の私の唯一無二の心境なのである。>

 あれから30年。はなはだ畏れ多いことではあるが、先日私はその「長崎の鐘」と、永井隆博士の短歌に藤山先生ご自身が曲をつけられた「新しき」とを歌わせていただき、新刊の音読DVDに収録した上YouTubeでも公開させていただいた(2023年9月19日まで。JASRAC、日本コロムビア許諾済)。

 あわせて新刊に長崎および広島の原爆のこと、戦没学徒のことを書いたのは、これからの時代を生きる子どもたちに大切なことを知って欲しいと願う教育者としての思いに加え、この時の私自身の「生きてある生き方においてお応えして」ゆきたい、と願った誓いを実現するためでもある。もちろんそれは今回限りのことでなく、今後も生涯通して子どもたちに大切なことを伝え、教えつづけてゆくことを改めてお誓いし、お亡くなりになって30年となる今日のこの文の結びとさせていただきたい。

令和5(2023)年8月21日
小田原漂情
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