言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.272 鈴懸の径、森の小径のこと

2017年10月16日

 今日10月16日は、故灰田有紀彦先生のご命日である。今年は特に、先生が作曲され、弟の勝彦先生が歌われた、『鈴懸の径』と『森の小径』のことを、お話ししたい。

 作詞はいずれも佐伯孝夫氏で、『鈴懸の径』は昭和17年(1942年)、『森の小径』が昭和15年(1940年)に発売された。どちらも「灰田メロディー」を代表する大ヒット曲であり、また長く歌い継ぐべき、美しい佳曲である。

 さて、この2曲の灰田メロディーには、現在のわれわれにとって深い示唆をふくむ、かなしい歴史が付随している。多少とも客観的な記述とするため、私自身の旧著で恐縮ではあるが、1992年10月刊行の『遠い道、竝に灰田先生』より、『森の小径』についての一節を引用させていただきたい。

 <今では書名も著者もわからなくなってしまったが、大学の図書館で見つけたある本に、次のような意味のことが書かれていた。「ある意味で、もっとも灰田勝彦らしいと言える一曲。淡い夢さえも現実には見ることを許されなかった戦時下の若者たちが、ひそかに愛唱したという。ある飛行兵は毎日わずかな空き時間に、基地のはずれでひっそりこの歌を口ずさみ、飛んで行って、そして再び帰らなかった。」>

 『森の小径』は、美しく清らかな、淡い恋の歌である。日中戦争から太平洋戦争へと局面が進み、戦況がきびしくなるにつれ、国内でも物資の不足、生活の窮乏が著しくなり、当たり前の男女の交際なども許されない風潮になって行った。引用した本の飛行兵の例などは、異性にあこがれの気持ちを持つことさえ押さえられ、『森の小径』という歌の中に、切ない思いをせめても託していたのである。このような青少年は数多く存在したし、歌われた灰田勝彦先生は、あの歌で救いのない道を生きる若者が少しでも夢や希望を持ってくれたのだとしたら、歌手になってよかったし、歌手として本望だったと述べられている(前掲書および「ビッグショー/青年66歳」より)。

 『鈴懸の径』は、立教大学構内に勝彦先生の筆跡の碑が現存しており、立教大学の鈴懸の径をテーマに青春の友情を歌っている。各種のアレンジによって、世界的にも広く知られたメロディーである。そしてこの歌も、「友情」をモチーフとして、死の待つ戦線へ出撃して行く往時の若者たちに愛唱されたのである。どちらの曲も美しいメロディーに、美しい言葉がのせられて、多くの若人たち(その方たちは私たちの先人である)の心をつかんだ。そしてその歌への思いを胸に、将来ある若い先人たちが、戦争で不幸な死を遂げられたのである。

 あらためて述べるまでもなく、現在わが国をとりまく情勢は予断をゆるさない。その中で、「戦争がはじまるのは止むを得ない」などの言葉も、目にすることがある。しかし止むを得ない、しかたがないなどと皆が考えてはいけない。もしそうなってしまったら、自分の愛する人が命を奪われ、生活基盤も失われ、当然自分自身の命さえ、失われるかも知れないのだ。当たり前のことを、当たり前に発言できる社会の中で、発言すべきことを発言しなければならない。灰田有紀彦先生のご命日に、今年はこのことを述べさせていただきたい。



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Vol.271 受け継いだものを

2017年08月21日

 今年は雨が多い。局地的なゲリラ豪雨が多く(先日は住まいのある品川区でも雹が降った)、出水に見舞われた地域では、死者・行方不明者をはじめ大きな被害が出ているほか、東北地方を中心に米の作柄を危ぶむ声も聞かれはじめた。

 24年前、1993年の夏も、今夏のようなゲリラ豪雨などはなかったが、長雨がつづき気温も低く、米の作柄は各地で平年を大きく下回ったと記憶する。

 その1993年の今日、8月21日に、藤山一郎先生が亡くなられた。来年で四半世紀にもなろうという今日、先生のことをすこしご紹介させていただくのもよいかと思う。

 藤山一郎先生は、東京日本橋のご出身である。東京音楽学校(現・東京芸術大学)に学ばれ、クラシックの声楽家として将来を嘱望されていたが、昭和6年(1931年)に学費稼ぎのアルバイトのつもりで吹き込んだレコード『酒は涙か溜息か』が大ヒットし、一躍スター歌手となられた。しかし、後にこのアルバイトが学校当局の知るところとなり、あわや放校処分というピンチに陥ったが、日ごろの勤勉、成績優良と、アルバイトも家業を助ける目的だったことなどから、比較的軽い停学処分で済まされた。

 卒業後は、流行歌手として文字通り第一線を走りつづけられた。歌われた歌は千三百曲にも及び、『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』『青春日記』などの抒情的な歌謡から、『丘を越えて』『キャンプ小唄』や戦後の『青い山脈』『丘は花ざかり』等々の明るい歌など、幅広い流行歌群を残して下さった。戦争中は、『燃ゆる大空』などの戦時歌謡も数多く歌われたが、戦後の昭和24年(1949年)には、『長崎の鐘』(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)を歌われ、最初のレコーディングの時は、38度の熱を押して吹込みをされたというエピソードが残っている。

 藤山先生は、私が敬愛してやまない「先生」であるが、本日とくにお伝えしたいことが、二つある。一つはまず、前段で述べた戦時歌謡の吹込みに関して、「国費で勉強させていただいたから、国にお返しするのは当然のつとめだと考えた」と、先生ご自身が述べられたことである。国立の音楽学校で学んだこと、すなわち「国費で学んだ」ことであるという、「公」に対する意識の高さは、現代の社会が忘れてしまいがちなものでないだろうか。

 また、これはいつもお話ししているように思うが、先生の「言葉を正しく使う」というご姿勢には、張りつめた厳しさが通っていて、言葉とともに生きる私にも、深い精神性を教えて下さった。今後もより一層、深く教えを賜り、受け継がせていただいたものを、守り、発展させて行くことを誓う、今日のこの日である。

2017年8月21日
小田原漂情
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Vol.270 忘れず、語りつづけることを

2017年08月15日

 今日は正午に、全国戦没者追悼式を見ながら黙禱し、その後出社した。玉音放送から72年、日本が平和であることを、かつてのように声高には述べかねる現況の下、だからこそ、より真剣に平和を願うために、考えなければならないことは多い。

 ポツダム宣言が出されてから、玉音放送によって日本が戦争の体制を終わりとするまで、20日ほどの時間が経過している。この間8月6日に広島、そして9日に長崎への原爆投下があり、8日にソ連の参戦があった。

 長崎への原爆投下の後、10日以降も、各地が空襲に遭っている。14日には、大阪などのほか、山口県岩国市と光市も空襲を受け、光では海軍工廠が集中的に爆撃されて、そのため多くの軍人・軍属とともに百数十名の動員学徒が、命を落としたという。大学の同窓の友人が光の出身で、亡くなった女学生のお父さんの手記を読んだことがあると教えてくれたが、同じものと思われる手記を、今日、「光海軍工廠空襲」というサイトで、読ませていただいた。

 亡くなった女学生の家では、彼女とその弟の二人が、学徒動員のため光海軍工廠で勤務していたという。空襲のあと、弟は帰宅したが、姉が戻ってこない。翌日、お父さんは汽車で光へ出向き、多くの遺体が並べられた会館で、はじめは見つけられず、再度調べ直して、金歯と内ポケットの紙片から娘の遺体を確認したのだと、手記には書かれている。工廠が壊滅した空襲で焼かれた遺体は、外面からでは見分けることができなかったのだろう。

 戦争のさなかのこととはいえ、あまりにも痛ましい女学生の死である。空襲された場所は海軍工廠で、彼女は学徒動員のためにそこにいて、命を落としたのである。しかも、後世からみれば、翌日には、戦争そのものが終わっているのだ。あと少し早く戦争が終わっていれば、という思いをした遺族が、当時どれほどいたことだろうか。

 ポツダム宣言受諾に至る経緯は、和平派と継戦派のせめぎ合いが苛烈であったから、和平にこぎつけるために、それを主導した人たちの命がけの努力があっての15日という結果なのだという見方もあろう。しかし、何ら罪のない無辜(むこ)の国民が命を落としつづける中、なぜもっと早く、と思わずにいられなかった人々の思いを知り、忘れないことが、現在のわれわれには何よりも重要だろう。

 そして、一度始めてしまった戦争を終わらせることがどれほど大変だったか、またその陰でどれほど多くの国民が命を失ったか、ということを考えれば、戦争は始めてはならないし、国家がそうした方向へ進まないよう声を上げつづけなければならないと、答えは決まっているはずである。中学生、高校生の年代の人たちが、戦地や軍需工場で命を落とした過去の悲劇を深く反省し、現在の子どもたちの未来を明るく保ちつづけるためにも。

平成29年8月15日
小田原漂情

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