言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.289 表現者の魂を思う‐令和元年10月16日

2019年10月16日

 今日10月16日は、灰田有紀彦先生のご命日である。先生が作曲なさった『森の小径』『鈴懸の径』などの稀有にして美しいメロディーが多くの日本人のこころをなぐさめ、私も青春時代から大いに救われて来たということは、例年語っている通りである。

 今年は、言問学舎で国語教材の出版という新しい道に踏み出した。今月末の出来をめざして、夏休み明けから新刊の準備を進めて来たが、ちょうど今日、その原稿がすべて出来上がったのである。先週末は台風への備えもあり、もくろみよりわずかに遅れたが、何とか今月中には製品がそろい、販売を開始できる見通しが立った。

 原稿をそろえられる見通しがついたのは、昨夜である。そして今日、生徒が登塾して来るまで作業を進めて、公に発表できる段取りをつけられた(本稿が、公表第一回であるが)。段取りのついたのは今日の午後だが、原稿があらかたできて、その見通しが立ったのは昨夜日付が変わった頃、すなわち10月16日になってすぐのことである。

 その時、私は有紀彦先生のご命日に、新刊の準備が整ったご縁を思った。無論、今回の新刊は文語文法(古文の文法)に関するもので、厳密に言えば私の創作物、表現上の作物に属するものではない。しかし言問学舎で国語を教えること、そしてその精神と技術を多くの方たちに広めて行くことは、創業以来私が全力を注いで来た道であり、小田原漂情の生きる道をあらわすものであることは疑いない。その意味で、私はこの10月16日に新刊の準備を終えたことが、灰田有紀彦先生のお導きであり、ご縁なのではないかと強く感じた次第である。

 まもなく、日付がまた変わろうとしている。私は今日一日、灰田有紀彦先生の表現者の魂に導いていただきながら、行動していたように思えてならない。

令和元年10月16日
小田原漂情
posted by hyojo at 23:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.288 8月21日、26年を経て

2019年08月21日

 今年の7月は、下旬になってからの梅雨明け直前まで、気温も低く、雨模様の日がつづいていた。26年ぶりの冷夏か、などの報道も、目についたものだった。

その26年前、1993年の夏を、私は忘れることがない。その年の8月21日に、藤山一郎先生がお亡くなりになったからである。

時代の切り分け方にもよるが、藤山先生は、間違いなく昭和最大の歌い手であった。若い方たちのために顕著な例を挙げると、1992年5月に、国民栄誉賞をお受けになっている。当時スポーツ選手以外で、存命中に国民栄誉賞を受賞した人はなかった(その後も2018年2月の羽生善治氏に至るまで、生前受賞者はスポーツ界の選手、元選手のみである)。

昭和前期のそうそうたる歌い手の方たちが相次いで世を去った1980年代、最高峰の藤山先生はいつもお元気で、NHKの紅白歌合戦では、ラストの『蛍の光』の指揮をなさっていた。それゆえ私は「藤山一郎という太陽が私の上から消えてしまうことはあり得ないという思い」(『わが夢わが歌』所収「そして藤山先生へ」)を抱いていた。しかし避けることのできないお別れの時がついにやって来たのが、1993年8月21日だったのである。

 藤山先生は、お亡くなりになる数日前、奥様に「ピアノをダーンとたたいてぴたっと止まるような、そんな死に方をしたい。ぐずぐずするのはいやだ」という意味のことをおっしゃったのだと聞く。そのお言葉通りの、まことにあざやかなご最期だったのだが、私は文字通り太陽を失ったような衝撃と悲しみに暮れ、名古屋から東京目黒区の先生のご自宅まで弔問に伺った。そして今、あの夏のことをふり返るとき、コメの作況指数が74にまで落ち込んだ(平年を100とするもの)記録的な冷夏は、藤山一郎という巨星を送るための異変だったのではないかと思えてならない。

 私自身は、今年の8月、6日の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式からこのかた、今の時代を生きる若者たちのためにこそ、私が学びえたものを伝えて行かなければならないという思いを強くしている。その意味も含めて、今日の昼休みには『青い山脈』を歌わせていただいたが、3番の歌詞の「かがやく嶺の/なつかしさ 見れば涙が/またにじむ」の言葉と、歌っていらした藤山先生のお顔、お声が脳裏に浮かんで、心に迫るものを感じた。藤山一郎先生という大きな明るい山脈が与えて下さったものを、能(あと)う限り伝えて行きたいと願う、この一日である。


令和元年(2019年)8月21日
小田原漂情




posted by hyojo at 16:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.287 若者たちのためにこそ

2019年08月15日

 戦後74年となった今年の全国戦没者追悼式を視聴しながら、正午に黙禱し、この文章を書き起こしている。天皇陛下のゆったりとした、かつ明瞭なお言葉に、「世界の平和と我が国の一層の発展を」祈る気持ちになった人も多いことだろう。 

 私ごとだが、7月の下旬に叔父が他界した。89歳だった。神奈川県で隣り町に住んでいたため、大学を卒業するまではよく従兄弟たちと双方の家を行き来して、叔父にもかわいがってもらったのだが、その叔父が往時、「自分は特攻隊員になる覚悟を決めていた」と話してくれたことがある。詳細を聞いておくべきであったと悔やまれる。

 叔父は千葉県の出身で、旧制安房中学校に通っていた。昭和20年(1945年)には、満15歳から16歳となる年齢だったはずだ。本日参照させていただいた「特定非営利活動法人 安房文化遺産フォーラム(旧名称:南房総文化財・戦跡保存フォーラム)」による「戦跡からみる戦時下の館山≪(1999年)豊津会例会報告レポート/報告「戦跡からみる戦時下の館山」≪豊津会例会(1999年)≫」によると、同年5月31日には館山市でも国民義勇隊が結成されたとある。そして6月22日には義勇兵役法が施行され、「15歳以上〜60歳以下の男子および、17歳以上〜40歳以下の女子に義勇兵役を課し、必要に応じて国民義勇戦闘隊に編入できることとした(第2条)。年齢制限外の者も志願することができた(第3条)。」(ウィキペディアより引用)という、「本土決戦」にそなえた抜き差しならない状況に至っていたようだ。そんな状況下、中学4年生だったと思われる叔父も、かつて幼い私に語ってくれた決意を固めていたのだろう。房総半島からは、「震洋」という「モーターボートに爆薬を装備して敵艦に激突させる」(引用 同)特攻兵器が出撃していた。叔父に昔日聞いた話はその「震洋」の内容と一致していたし、先に引用した「安房文化遺産フォーラム」のレポートに記されている安房地方の切迫した状況の中で、当時の若者には避けることのありえない道だったのだろうか。

 叔父は幸い、出撃には至ることなく、戦後長寿を全うしたが、一時は死を覚悟した青春期を送ったのだ。一昨年の本稿では8月14日の光海軍工廠空襲(山口県)で亡くなった女学校3年生の女性のことを書いたが、現在私が塾で指導する生徒と同じ年代の方たちが、青春らしい青春を知ることもなく、尊い命を失ったのが、遠い世界のことではない、わが国の過去の現実なのである。これからの長い世を生きる若者たちのためにこそ、私自身が知り得た過去を彼らに伝えて行くことを、従前以上に自らに課すことを、今日の私の決意として記しておく。


令和元年(2019年)8月15日
小田原漂情


posted by hyojo at 14:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記