言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.286 自分にできること、つづけなければならないこと

2019年08月09日

 6日の広島市長の平和宣言が短歌作品を取り上げたのにつづいて、今日9日の長崎市長の平和宣言では、被爆時に17歳だったという女性の詩作品が、田上富久市長の「目を閉じて聴いてください。」という呼びかけにつづけて読み上げられた。詩の全文を引用するのではこの稿の位置が狂うから、私が特に注目した箇所を二か所、引用させていただきたい。

         (前略)

 ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった

         (中略)

 だけど……

 このことだけは忘れてはならない

 このことだけはくり返してはならない

 どんなことがあっても……

 「ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった」の一行は、それだけが独立した連とされている。あくまで作品を読み解く意から記述するが、「ケロイドだけを残して」と表現したのは、それが作者自身の身の上のことだったからだろう。私がこれまでに見聞した資料や作品に限っても、うら若い女性が外見に大きな傷を負ったという例は多くあり、忘れられないことなのだが、この詩の作者も、17歳の身体に一生消えないケロイドを残された。つづいて田上市長は「自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験をさせてはならない、という強い思いが、そこにはあります」と、平和宣言で述べている。

 すでに平均年齢が82歳を超えている、被爆体験を持つ方々が、自らの痛みを訴えるばかりでなく、「今後、世界の誰にも同じ苦しみを経験させたくない」と語られる言葉にこそ、原爆の惨禍も戦争も知らずに生きて来られたわれわれ戦後の日本人が、どのような論理よりも深く学ぶべきものがあるのではないか。

 そして、「このことだけは忘れてはならない/このことだけはくり返してはならない/どんなことがあっても……」という訴えが、「くり返してはならない」というその叫びが、一部の人間にしか届かないというふうに、われわれがあきらめてしまうことこそが、もっとも忌むべきことであろう。

 一人一人の力は小さくとも、語りつづけ、願いつづけること。むろん私には、書きつづけることがそれに加わる。田上市長の平和宣言は、戦争が何をもたらしたのかを知ることが、平和をつくる大切な第一歩であり、人の痛みがわかることの大切さを子どもたちに伝えつづけることが、子どもたちの心に平和の種を植えることになる、と語られた。さらに次の一節を引かせていただき、令和元年8月9日の拙稿を結びとしたい。

 <平和のためにできることはたくさんあります。あきらめずに、そして無関心にならずに、地道に「平和の文化」を育て続けましょう。そして、核兵器はいらない、と声を上げましょう。それは、小さな私たち一人ひとりにできる大きな役割だと思います。>(令和元年8月9日の長崎市長による平和宣言より引用)


令和元年(2019年)8月9日
小田原漂情

posted by hyojo at 23:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.285 一人一人の思いを

2019年08月06日

 おかっぱの頭(づ)から流るる血しぶきに 妹抱(いだ)きて母は阿修羅(あしゅら)に

 今日(令和元年8月6日)の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式で、松井一實広島市長が平和宣言の中に引用した短歌である。詠んだのは、当時5歳だった被爆者の方だという。

 被爆した過去、原爆をうたった歌人と言えば、2010年に亡くなられた竹山広氏のことがすぐ思い起こされる。私は直接お目にかかったことはなく、氏の代表的な作品も、迢空賞を受賞された際に少しく拝見した程度である(お名前は1996年にながらみ現代短歌賞を受賞なさった頃から存じ上げていた)。しかし氏の短歌作品には、短歌という短詩形文学ならではの凝縮された「語る力」が溢れていたことを、私自身が短歌の実作からは遠ざかりつつある日々の中でも、瞠目する思いで見つめていたことを思い出す。

 さて、冒頭に引用させていただいた一首についてである。この歌の鍵となるのは、結句の「阿修羅に」であろう。「阿修羅」とは、広辞苑第六版では「(前略)天上の神々に戦いを挑む悪神とされる。(中略)絶えず闘争を好み、地下や海底にすむという。(後略)」とされている。一般的にも、戦いの神、己をかえりみず憤怒の形相で戦うイメージがあると言っていいだろう。
 被爆した時5歳だったという作者の妹は、より幼い、いたいけな童女だったはずだ。その頭から血しぶきがほとばしったと表現されているから、どのような運命だったのか、推しはかられる。その娘を抱いて阿修羅と化した母の戦いは、いかようなものであったのだろうか。「阿修羅に」と結んで具体的な描写がないことから、読者はその「戦い」を幅広く思いみることが可能だ。これが短歌という詩形の持つ力である。一つの解釈としては、幼い妹(娘)の命をつなぎとめようとして、「母」は阿修羅のごとく奔走したのではないかと考えられる。あるいは、その後の長い被爆者としての戦いを指すのだろうか。
 いずれにしても、短歌であるからこそ有している「語る力」を、この歌も持っており、われわれに強く訴えかけてくるものがある。そして、広島平和記念資料館がリニューアルし、被爆した犠牲者「一人一人」に思いを馳せて欲しいとするその理念とも、通じ合うものがあると言えるだろう。

 一首の短歌に深く思いを致しながら、松井市長が平和宣言でやはり引いた、「一人の人間の力は小さく弱くても、一人一人が平和を望むことで、戦争を起こそうとする力を食い止めることができると信じています」という当時15歳だった女性の言葉と、こども代表による「平和への誓い」の中の、「『悲惨な過去』を『悲惨な過去』のままで終わらせないために。」という願いとを、私たちも常に信じて、なすべき行動をつづけなければと心に銘じた、今日の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式であった。

令和元年(2019年)8月6日
小田原漂情
posted by hyojo at 16:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.284 令和元年6月23日 思うこと、三点

2019年06月23日

 本日の沖縄全戦没者追悼式での玉城デニー沖縄県知事の平和宣言を読んで、思ったことが三つある。

 一点目は、知事が平和宣言の中で日本国民に対して呼びかけた「日本国民全体が自ら当事者であるとの認識を持っていただきたい」(6月23日朝日新聞インターネット版記事より引用)という点について、私自身が思いを新たにしなければならないと感じたことである。私自身のことを述べると、小学校の後半から大学卒業直後まで神奈川県の大和市で育ったので、米軍基地の問題については曲がりなりにも当事者だった。小・中学校の校舎の窓は防音の二重だったし、学校の授業中でも、自宅で勉強している時や団欒のさなかでも、軍用機の騒音で集中することも会話をすることもできないことが頻繁にあった。就職して家を出た後だったが、今でも老母が住んでいる家の界隈が、タッチアンドゴーの騒音で悩まされることともなった。米軍基地の近くに住むことの影響を如実に知っているという意味では、その当事者の一部ではあったのだ。
 だが、それは沖縄の当事者であることでは決してない。ことに、沖縄の米軍基地をどうすればよいのかということを考える上で、県外へ移設する首相案が否定されて以来、沖縄の基地の現実的解決案は、きわめて道を狭められてしまい、考えることだけでも自家撞着に陥ってしまうこととなったきらいがある。そのために、自分の意見、考えというものを表明しにくい状況でもあったのだが、だからといって口をつぐんでしまってよいはずもない。「当事者意識を持つべきだ」と明言してくれた玉城知事の立場を支持することから、私の立場も明確にしておきたい。

 第二は、やはり玉城知事の平和宣言で述べられた、次の部分に関する見解である(引用 同)。
「(今年2月の、辺野古埋め立てに関する県民投票実施を受け)その結果、圧倒的多数の県民が辺野古埋め立てに反対していることが、明確に示されました。
 それにもかかわらず、県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をも蔑(ないがし)ろにするものであります。
 政府におかれては、沖縄県民の大多数の民意に寄り添い、辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望いたします。
 私たちは、普天間飛行場の一日も早い危険性の除去と、辺野古移設断念を強く求め、県民の皆様、県外、国外の皆様と民主主義の尊厳を大切にする思いを共有し、対話によってこの問題を解決してまいります。」
 沖縄は、「対話による解決」を公に要望している。要望された政府は当然「対話」をはじめることから応えるべきであろうし、当事者であるべき国民は、自身の持っている民主的な手段で行動するほかないだろう。

 そして、昨年8月に亡くなられた、沖縄県前知事翁長雄志氏への思いである。2014年に沖縄県知事に就任してから、氏が知事として苦しみ、奮闘された歩みは、つねに注視していた。亡くなられてから、翁長氏が「自分はこれ以上頑張れないほど頑張った」という意味のことを夫人に語られたと聞いて、同時代に生きた人の中で翁長氏ほどその言葉にふさわしい人はあるまいと、感じたものである(私自身も過去に二度ほど、自分の限界まで力を尽くしたと思ったことはあるが、翁長氏とは到底比較にならない。翁長氏ほど苦闘した人を、歴史上の人物でなく実際に同じ時代を生きた人の中に知らない、という意味である)。その翁長氏の思いを決して忘れず、今日の玉城知事の平和宣言をつねに当事者として意識しつづけることを、本日胸に刻んだ次第である。

令和元年6月23日
小田原漂情

posted by hyojo at 23:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記