言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.269 決してあきらめずに

2017年08月09日

 本日は午前中から夏期講習の授業のため、11時2分に塾内で黙禱。Webのニュースで田上富久市長の長崎平和宣言が報じられるのを待った。この一年間で新たに死亡が確認された被爆者3551人の名簿が奉安され、犠牲者は17万5743人になったという。

 田上市長の淡々とした誠実な語りぶりは、Web上で文字を読んでもよく伝わって来る。ことに印象ぶかいのは、「核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。」「日本政府に訴えます。」と、相手を変えて二度、それぞれに対し求める内容を、ゆっくり呼びかけている点だ。もちろん田上市長も日本政府に、核兵器禁止条約への「一日も早い」参加を求めている。

 歴代の内閣、首相が、広島や長崎の訴えよりも、アメリカや世界の大国の方を気にしていたのは、残念ながら動かしがたい事実であり、現政権だけのことではない。しかし、それにしても、あまりにも聞く耳を持たない、馬耳東風というよりも悪意的に国民の声、批判の声を無視するような政府与党の権力者の言動を日ごろ見せつけられていると、広島の松井市長や長崎の田上市長の真率な訴えを受けとめる為政者のいない現在の日本は、何と空しい国なのかと思わずにいられない。

 しかし、今日の田上市長の平和宣言の中でも、「小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になる」と語られている通り、あきらめてはいけない。そして忘れてはならない。

 小さな行動でも、志を曲げずにつづけること、積み上げて行くことが重要である。私もあきらめることなく、語り、伝える自身の営みを、つづけて行こうと思う。

平成29年8月9日
小田原漂情

 
posted by hyojo at 16:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.268 「あなたかも知れない」を、自分のことと

2017年08月06日

 今年も8月6日を迎え、朝からTVで広島の平和(記念)式典を見、8時15分に黙禱した。今日、新たに原爆慰霊碑に死没者として納められた名簿に名前のある方は5530人、72年間の総計は、30万8725人となった。

 今日の式典でもっとも印象深かったのは、松井一實広島市長の平和宣言で、「皆さん」という呼びかけにはじまり、大半の部分を通して日本の、いや全世界の一人一人の人々に向かって語られたその言葉と、一人一人に「自分のこととしてとらえること」を求めたと思われる、語調であった。

 とくに、次の一節は引用させていただき、本稿をお読み下さる方々とともに今後のことを考えるいとぐちとしたい。

 「このような地獄は、決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄(ほの)めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨(むご)たらしい目に遭(あ)うのは、あなたかもしれません。」

 惨たらしい目に遭うのが「あなた」、すなわち自分であるかも知れない、と考えることが荒唐無稽な空想であると思う人は、現在の日本でも多くはないだろう。仮定、仮想の段階を超え、もしかしたら実際にそうした事態が生じるかも知れないと、思わないわけにはいかない、現在の国際情勢である。

 こども代表による「平和への誓い」では、被爆後の広島で生き抜いた人たちが「あきらめなかった」から、広島が緑と命のあふれる街の姿をとり戻した、という意味のことが語られた。現在の、ともすれば兵器には兵器で対抗すればいい、という意見が拡大しがちな状況にあってこそ、より高次の視点から、あきらめない行動と努力を尽くすことが必要であろう。

 核兵器禁止条約を日本政府が締結促進するよう、松井市長の平和宣言は求めた。アメリカの核の傘の下にある日本が、アメリカの意向を忖度するのは、戦後72年ずっとつづいて来たことであり、それだけの理屈なら誰にでもわかる。そこから踏み出し、独自の立場を打ち立てることこそが、真に偉大な為政者の為すべきことではなかろうか。そのような為政者の政策・方針であるなら、国民が正面から意思表示に向かうことも、また必然のつとめとなるであろう。

2017年8月6日
小田原漂情
posted by hyojo at 16:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.267 最近気になる、いくつかの誤用について

2017年06月26日

 「誤用」というのは、言葉の使い方の誤った例のことである。よくいうところの、若者の話し言葉、同じく若者のSNS上のやりとりにとどまらない。いわゆるネット記事はもちろん、新聞や雑誌、テレビ局のニュース記事(文字で示されたもの)、またそれらの媒体で目にする「識者」の文章まで含め、さまざまなところで、言葉の誤用、すなわち日本語の乱れをつきつけられて、辟易(へきえき)することが多いので、少しお話ししたい。

 とはいえ、これまでにもいく度か書いていることをはじめにお断りしておくが、言葉は時代により変化するものだということを、私もよく承知している。私の語彙や知識、語感だけがあらゆる場合に通じる尺度でないことは十分承知しており、その上でなお、「ちょっと首をかしげざるを得ない」誤用の例について、私見を述べてみたい。

@「○○ではなく」

 「これは私の独断ではなく、以下に列挙する例からも顕著に判断できる、誤解のパターンです」というような文でいう、「ではなく」についてである。例文は、まず妥当な例であろう。が、次のような場合はどうか。

 「彼女はそのとき、つと吹いて来た風に吹かれて、白でなく、うす紅色のスカーフを選んだ。」

 助詞の使い分けで、「すると、彼が歩み出た」、「すると、彼は歩み出た」の例などのように、主格をあらわす格助詞の「が」と、他と明確に区別する副助詞の「は」の違いを学ぶことがあるのだが、「ではなく」と「でなく」においても、前に置かれることがらを区別し強調する「ではなく」が、単に「AでなくB」をあらわすだけの意味の文で用いられている例を、よく見かける。というより、本来は「でなく」であるはずの記述で「ではなく」と書かれているものが近年ほとんどのようであり、まさにひところ流行った「贈らさせていただきます」という「さつき言葉」のようで、辟易する。

A「○○な」

 「○○な」という表現は、本来は「○○だ」という形容動詞の連体形の表現である。これに対して、「名詞」+断定の助動詞「だ」の、品詞の違いを問う設問が、入試などでは多くみられる。「勇敢な」は形容動詞「勇敢だ」の連体形だが、「名人だ」は、「名人」+「だ」というたぐいである。
 しかし「名詞」+「だ」の場合でも、「○○な」というような言い方が許容されるようになり、あげくのはてには「進取の気風」の「進取」さえ、「進取な」などとされているコピーまで見かける次第である。

 このような「誤用」を、ただ見過ごしているとどうなるのか。私自身、千年以上におよぶ言葉の変遷の、現在いちばん先っぽにちょこんと置かれた人間の一人にすぎないから、決定的なことを言えるはずはない。ただ、言葉や価値観が大きく変わる時代には、それを容認する立場と否定する立場の双方が、つねに存在したはずだ。私は後者であることを自負しているから、その立場からの発言であることを明言した上で、次のことを言いたいと思う。

 まず、かんたんに言って、言葉は大切に使うべきだ。軽い言葉は、多くの人が信用しない。その意味において、安易な誤用を容認するべきではない。たとえば、「可能な限り」という意味で、「あたうる限り」と言った公人がいた。これは「誤用」である。「能う(ふ)」はハ行四段活用で、「限り」にかかる連体形も「あたう(ふ)」である。「あたうる」は、「与える」の意味の「あたふる」である(いまこの記事を書いていたら、「能うる」や「能える」が変換されて、ぎょっとした)。

 言葉が変遷して行くことは、止められない。しかし明らかな「誤用」を放置することは、規範をゆるがせにし、一時的、恣意的な判断で、どんなことでもまかり通る世の中の雰囲気を生み出して、人々が生きにくい社会のあり方、ある者にとって都合の良い空気づくりを、助長して行く。もっとはっきり言えば、間違いに寛容な、いや鈍感な社会になって行く危険性を、「誤用の放任」は、はらんでいるのである。

 これも国語を守る立場にあり、国語というステージで生きる者のつとめとして、表明しておきたい。
posted by hyojo at 01:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記