言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.297 ふたたび『鈴懸の径』を

2020年10月16日

 10月16日。日本にハワイアンを紹介された灰田有紀彦先生の、34回目のご命日を迎えた。先生が残して下さった美しいメロディー、心にしみる歌は枚挙にいとまがない。例年もいくつかの歌について、拙い文を書かせていただいてきたが、今日はふたたび、『鈴懸の径』についてつづってみたい。

 私ごとであるが、9月の最終の土・日に三陸地方へ足を運んだ。車で回ってくれたのは、大学時代の無二の親友O君である。会うのだけでも22、3年ぶり、旅程をともにするなど25年ぶりにもなろうかという、久しぶりの再会だった。

 しかし、四半世紀ぶりにまる一日半、行動を共にしていて、感じたのは、この得がたい友との間には、たとえ何年離れていようと互いを隔てるものは生じるはずもなく、二十歳前後の学生時代そのままの距離感、空気の中で、ともに過ごすことができるということだった。すなわち我々は旧交を温めるのでなく、互いに年齢相応の風体になってはいるが、内面は四十年前と少しも変わらず、同じ時間を共有していたのだ。

 そして、私とO君の友情のバックには、『鈴懸の径』の旋律が流れているように思われる。何十年経ってもまったく変わることのない友情を、灰田有紀彦先生のあの美しい旋律が裏打ちしてくれるのだ。「友と語らん 鈴懸の径」からはじまる歌詞は、佐伯孝夫氏の作詞になるものだが、言葉はもちろんのこと、あの有起彦先生ならではのゆったりとやさしい旋律が、時を超えてなおゆらぐことのない友情を、たしかに証明してくれるように思えてならない。余談だが、灰田勝彦先生の歌われた『アルプスの牧場』のヨーデルを練習したのも、O君の下宿の近くの石神井公園であった。就職を見すえる頃になり、勝彦先生が生涯在籍されたビクター(音楽産業)に就職したいと口にした際、「いいんじゃないか。そうした一途な思いは必ず成就するよ。」と言ってくれたのも、O君だった。その件は実際の就職活動に臨む際、方向を転換することになったが、一途な思いの方はヨーデルを歌えるようになる形で成就して、今に至っている。

 こんなO君との昔日の1コマを思い出したのもまことに久しぶりだったが、それもやはり『鈴懸の径』のみちびくところであると言えるだろう。言葉ばかりでない、美しい旋律がつむぎ、つないでくれる人の思いというものを、改めてかみしめる今日、10月16日である。青空がことのほか目にしみる。

2020年(令和2年)10月16日
小田原漂情





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Vol.296 導きくるるもの

2020年08月21日

 今年の7月は、関東地方でも雨の日が多く、気温が上がらず、冷夏になるのではないかと危ぶまれた。8月1日にようやく梅雨明けが発表されたが、私は一人、はっきりした梅雨明けが宣言されなかった1993年の夏のようになるのではあるまいかと、気を揉んでいた。1993年の夏は、藤山一郎先生が世を去られた、忘れられない夏である。今日8月21日で、27年となる。

 藤山先生が私に教えて下さったことは、数限りない。折にふれ思い出すのが、先生がある番組のインタビューで、「私は戦前で終わった人間ですから」と語られたお言葉である。軽々に踏み入ることは許されないから、端的に挙げられる事績のみを対比させていただくと、そのお言葉の対局にあることが、『長崎の鐘』を歌われたことではなかったか。

 『長崎の鐘』は、そもそも長崎医科大学の教授でいらした故永井隆博士が、研究者の視点から長崎に投下された原爆についてお書きになり、後世の平和のために残された貴重な書物が原型である。やがて古関裕而作曲、サトウハチロー作詞で同名の歌曲が作られ、藤山一郎先生が歌われた。

 藤山先生は、永井博士にお会いになり、一首の短歌を贈られたという。

  あたらしき朝の光の差しそむる荒れ野に響け長崎の鐘

 この短歌に、藤山先生はご自身が曲をつけられ、ステージで『長崎の鐘』3番のあとに続けて歌っていらした。私の手もとには、ビデオテープで、永井博士とのゆかりをご紹介下さったあと、この短歌を加えて『長崎の鐘』を歌って下さった映像が残されている。25年前に長崎を訪ねた時は、折からの雨を幸い、人気のない坂道で傘を差して、『長崎の鐘』をこの短歌まで、歌わせていただいた。

 25年が経って、今年で長崎の惨禍から75年。25年前の私には、その2年前に亡くなられた藤山先生への「お志を受け継ぎます」の思いも大きかったのだが、8月6日以来ここに記している通り、私の行ないも一歩先のところへと、すすめるつもりでいる。その際、藤山一郎先生が残して下さった『長崎の鐘』が、私のすすむべき道を正しく示してくれるように思われてならないのである。

令和2年(2020年)8月21日
小田原漂情
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Vol.295 残りの四半世紀を

2020年08月15日

 8月15日。敗戦後75年の歳月が経過した。私的な事情だが、今年は新型コロナウイルス禍で小・中・高等学校の夏休みが短いため、例年と違って今日も朝から夏期講習の授業である。例年であれば全国戦没者追悼式をテレビで見ながら正午に黙禱し、天皇陛下のお言葉を拝聴してからこの文章を書くのだが、今日は授業開始に先立って、筆をすすめる次第である。

 昭和20年(1945年)のこの日、志願して海軍に入っていた父は18歳、母は13歳だった。私は昭和38年(1963年)2月の生まれである。物心ついた時はすでに高度経済成長のただ中で、日常生活の中で「戦争」、「戦後」を感じさせるものは微塵もなかった。ただ実際に従軍した人たちが社会の中枢を担っている時代で、子どもながらに見聞する書物や映画、テレビ番組などの背景には、作り手の、あの戦争に対する思いが投影されており、多くのものに深く頭を垂れる心持ちで、私はそれらのものに接していた。「戦後25年」を迎えたのが7歳の時だから、むろん意味はほとんどわかっていないが、その時の「空気」は受けとめていたのだと思う。

 それゆえに、長じてからも「戦争」は軽々しく触れてはいけないものだと感じていた。だが平成7年(1995年)、戦後50年の時に、当時32歳であった私は、直接戦争を体験した方たちが減って行く今後、自分は戦争のことを避けずに書いて行くべきだということを、当時所属していた歌誌『歌人舎』(今年、2020年8月号をもって終刊)に綴っている。

 曲がりなりにもその通りに、いくつかの小説(創作)では日本の過去の戦争のことを時代背景としたり、テーマにするなどして書いて来たのだが、広島と長崎の原爆のことについては、やはり軽々しく、「創作」の立ち入る場ではないと思われて、今のこの場のような随筆の形でしか、触れることはできなかった。

 しかし今年、8月6日の広島、9日の長崎それぞれの平和祈念式を見ているうちに、この75年を過ぎ、敗戦後1世紀への最後の四半世紀であるこれからの25年は、私自身のスタンスを、25年前と同じく一歩先へすすめるべきなのではないかと気がついた。最後の四半世紀、とは、私自身にとってもおそらく最後の四半世紀だろう(25年後に82歳であるが、旺盛な精神活動、表現活動を行なうためには、の意味である)。

 その四半世紀に、いま私が手がけている「子どもたちのための文章(教材)」においては、広島と長崎のことを含め、自ら制約をかけることなく、伝えるべきものを伝えて行くことが、必要なのではないか。もちろん起筆に至る数段階前、漠然と内容を想定するだけのレベルでも非常に重く、形の見えないものではあるが、これまでに実に多くの先時代の方たちから伝えられてきた、見失ってはならないものを、私自身の全力を投じて、これからの時代を生きる子どもたちのために、書いて伝えよう。75年が経過した今、ためらっている時間はない。今日8月15日、正午の黙禱を終え、書き記す。

令和2年(2020年)8月15日
小田原漂情


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