今日10月26日は、故灰田勝彦先生のご命日である。ひと言で言ってしまえば、先生は青春の痛みにおぼれかけていた私を救って下さり、正しい道を歩む人生に導いて下さった大恩人だ。そのご恩を思い、私自身の来し方をふりかえる日でもあるのが、この10月26日なのである。
お亡くなりになったのは1982(昭和57)年のことだから、今年で41年になった。論語に「四十にして惑わず」の謂(いい)があるが、それよりも長い年月が過ぎ去ったのである。私は当時19歳であったが、灰田先生のおかげでまっすぐ生きることができ、今年還暦を迎えることができた。例年記しているが、今年改めて、灰田勝彦先生への感謝の思いを深くした次第である。
ご命日の今日、有紀彦先生のご作曲で、モアナグリーフラブ及び楽団ニューモアナを通じて先生ご兄弟とともに活躍なさった永田哲夫先生が作詞された「ただ一つの花」を歌わせていただいた。動画の中でも目標として語らせていただいたが、現在60歳である私にとって、今かかげるべき目標は、「青年66歳」である。この言葉は灰田勝彦先生が66歳の時にひらかれたコンサートのタイトルで、灰田ファンにとっては、永遠の音楽青年と呼ばれた灰田先生の代名詞と言っていい響きを持っている。ご命日に灰田先生の歌を歌わせていただくようになって、今年で9年目だと思われるが、あと6年、15年連続となる66歳の時に元気で歌うことができるよう、たゆまず精進をつづけていきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=K40Io8uZ_Bs&t=5s ただ一つの花
2023(令和5)年10月26日
小田原漂情
言問ねこ塾長日記
言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。Vol.327 「青年66歳」をめざして‐ただ一つの花
2023年10月26日
Vol.326 鈴懸の径‐先達に感謝をこめて
2023年10月16日
手もとに一枚のスナップ写真がある。37年前、私は満23歳で、季節はちょうど今時分、日付は入っていないが、10月19日か20日か、それくらいのことであったと思われる。場所は当時お世話になっていたリゾート開発会社の蓼科高原の貸別荘の一室だ。私はビール瓶を両手でマイクのように持ち、歌を歌っている。歌っているのは「鈴懸の径」だろうと思われる。
それは1986年、昭和61年のことである。数日前の10月16日に、灰田有紀彦先生が亡くなられた。写真の日は、そのことをお聞きした当日か、翌日くらいのことであったろう。
「鈴懸の径」は、灰田メロディーの代表的な曲で、歌唱だけでなくさまざまな形で演奏されて、世界的にも知られている。最初に発表されたのは、もちろん灰田勝彦先生の歌唱であり、戦中の1942(昭和17)年10月のことである。翌年(昭和18年=1943年)10月には学徒動員が開始される時勢にあって、明日の命も知れない若者たちが、友情と青春を愛惜して愛唱したという。
また1982(昭和57)年10月26日に灰田勝彦先生が亡くなられた直後、この「鈴懸の径」の歌碑が立教大学構内に建立された。碑の正面の文字は勝彦先生の揮毫であり、先生は碑の除幕式を楽しみにしておられたという。11月に行なわれた除幕式には、お兄様である有紀彦先生が出席され、悲しみのコメントを述べられたのだが、それから4年後の同じ10月に、有紀彦先生も世を去られたのであった。
さて、冒頭お話しした写真であるが、社会人になって2年目、蓼科高原で勤め先の紅葉狩りがあった時のものだと思う。私は観光事業部という、開発した貸別荘村の運営をする事業部にいたが、その夜は不動産営業部の社員が集まっている別荘の飲み会に参加していた。その席で、「灰田勝彦先生のお兄様の有紀彦先生がお亡くなりになりました」と発表して、「鈴懸の径」を歌ったのである。
その席には、当時その会社の営業部門を引っ張っておられた取締役営業部長のOさんがいらした。他部門の若手である私には、ちょっと怖い、雲の上のような方だったが、Оさんは立教大学のご出身だったこともあってか、その日の「鈴懸の径」を気に入って下さった。
私はその会社を満3年で退職したが、四半世紀ほどの時を経て、Facebookをはじめた頃、Оさんのお名前を拝見して、「私ごときが『友達』などとおそれ多いことですが」とMessengerでご連絡した上で友達申請をしたところ、「そんなことはまったくないよ」と承認して下さったのである。以来十年あまり、直接お目にかかる機会はなかったものの、Facebook上で折にふれて釣りのこと、山梨のことなどをお話しさせていただいてきた。
そのОさんが急逝されたという連絡が、昨日、当時同期だった友人からもたらされた。つい先日、Facebookでお誕生日のお祝いを申し上げ、碓氷峠鉄道文化むらで拙著『小説 碓氷峠』を購入して下さったと、お知らせいただいたばかりである。はじめ、ご葬儀の次第が添付されているのを目にした時、それがОさんのご葬儀だなどとは、まったく思わなかった。お名前を確認した時も、信じられない、の思いしか浮かばず、まさに言葉を失ってしまったのであった。
ふり返ると、会社でお世話になった頃、多くはない機会でありながら、教えていただいたことがたくさんある。入社一年目のことだったと思うが、八ヶ岳から帰京する際私が車を運転して、Оさんが助手席に乗って下さったことがある。小仏トンネルの手前だったか、上り線の渋滞に行き当たり、私は目と頭では渋滞を認めていながら、肝心の足が一歩遅れていた。するとОさんは短く、しかし強く「ブレーキ!」と促して下さった。私はすぐブレーキを踏んだのだが、役員をお乗せしているという意識からか、あるいは未熟ゆえか、ブレーキの踏み方が甘かった。そこへふたたび「もっと!」というОさんの注意があって、それから強くブレーキを踏み、それでもようやく渋滞の最後尾の少し手前で止まることができて、私は冷や汗をかきながら、Оさんに「ありがとうございました」とお礼を申し上げた。Оさんはただうなずくだけで、下手な運転をした私をとがめることなどなさらなかった。
また、3年間勤めた会社を退職する際、その時観光事業部は経堂にあったので、八幡山の本社まで、役員への退職あいさつのため課長が同行して下さった。社長室のあと、Оさんの席に伺い、それまでのお礼を申し上げると、Оさんは課長に向かってひと言、「こういう奴を辞めさせると、お前が苦労するんだぞ」と言って下さり、私にも笑顔を向けて下さった。過酷とも言える業務についていた3年間だったが、離れた部署でも見ていて下さった方があるということを実感したそのお言葉は、長く私の会社員生活の自信となったものである。
さらにFacebookでお付き合いをいただくようになってから、私が灰田先生の歌を歌わせていただき、Facebook上でお知らせすると、「私より一回り以上下の年代で、昔の歌をこんなに歌える人を知りません。」とのお言葉をいただいたこともある。大学を出てはじめて勤めた会社でお世話になった方は数多いが、直属の上司・部下の関係ではなかったけれども、Оさんは私にとって恩人と呼ぶべき存在のお一人だった。週末にご葬儀にお邪魔する予定にしてはいるが、何よりまずは、急ぎご冥福をお祈りする次第である。
灰田有紀彦先生のご命日に、私の履歴上の恩人のことを書かせていただいたが、一貫して思うのは、人生のしるべを与えて下さった先人、先達への感謝の思いである。願わくは、私自身も後進に何かをもたらし、慕われる存在でありつづけたい。そうすることが、かつて恵みをいただいた先達の方々への、私なりの恩返しなのだと思うばかりである。
恥ずかしながら、昔日の思い出のために
2023(令和5)年10月16日
小田原漂情
それは1986年、昭和61年のことである。数日前の10月16日に、灰田有紀彦先生が亡くなられた。写真の日は、そのことをお聞きした当日か、翌日くらいのことであったろう。
「鈴懸の径」は、灰田メロディーの代表的な曲で、歌唱だけでなくさまざまな形で演奏されて、世界的にも知られている。最初に発表されたのは、もちろん灰田勝彦先生の歌唱であり、戦中の1942(昭和17)年10月のことである。翌年(昭和18年=1943年)10月には学徒動員が開始される時勢にあって、明日の命も知れない若者たちが、友情と青春を愛惜して愛唱したという。
また1982(昭和57)年10月26日に灰田勝彦先生が亡くなられた直後、この「鈴懸の径」の歌碑が立教大学構内に建立された。碑の正面の文字は勝彦先生の揮毫であり、先生は碑の除幕式を楽しみにしておられたという。11月に行なわれた除幕式には、お兄様である有紀彦先生が出席され、悲しみのコメントを述べられたのだが、それから4年後の同じ10月に、有紀彦先生も世を去られたのであった。
さて、冒頭お話しした写真であるが、社会人になって2年目、蓼科高原で勤め先の紅葉狩りがあった時のものだと思う。私は観光事業部という、開発した貸別荘村の運営をする事業部にいたが、その夜は不動産営業部の社員が集まっている別荘の飲み会に参加していた。その席で、「灰田勝彦先生のお兄様の有紀彦先生がお亡くなりになりました」と発表して、「鈴懸の径」を歌ったのである。
その席には、当時その会社の営業部門を引っ張っておられた取締役営業部長のOさんがいらした。他部門の若手である私には、ちょっと怖い、雲の上のような方だったが、Оさんは立教大学のご出身だったこともあってか、その日の「鈴懸の径」を気に入って下さった。
私はその会社を満3年で退職したが、四半世紀ほどの時を経て、Facebookをはじめた頃、Оさんのお名前を拝見して、「私ごときが『友達』などとおそれ多いことですが」とMessengerでご連絡した上で友達申請をしたところ、「そんなことはまったくないよ」と承認して下さったのである。以来十年あまり、直接お目にかかる機会はなかったものの、Facebook上で折にふれて釣りのこと、山梨のことなどをお話しさせていただいてきた。
そのОさんが急逝されたという連絡が、昨日、当時同期だった友人からもたらされた。つい先日、Facebookでお誕生日のお祝いを申し上げ、碓氷峠鉄道文化むらで拙著『小説 碓氷峠』を購入して下さったと、お知らせいただいたばかりである。はじめ、ご葬儀の次第が添付されているのを目にした時、それがОさんのご葬儀だなどとは、まったく思わなかった。お名前を確認した時も、信じられない、の思いしか浮かばず、まさに言葉を失ってしまったのであった。
ふり返ると、会社でお世話になった頃、多くはない機会でありながら、教えていただいたことがたくさんある。入社一年目のことだったと思うが、八ヶ岳から帰京する際私が車を運転して、Оさんが助手席に乗って下さったことがある。小仏トンネルの手前だったか、上り線の渋滞に行き当たり、私は目と頭では渋滞を認めていながら、肝心の足が一歩遅れていた。するとОさんは短く、しかし強く「ブレーキ!」と促して下さった。私はすぐブレーキを踏んだのだが、役員をお乗せしているという意識からか、あるいは未熟ゆえか、ブレーキの踏み方が甘かった。そこへふたたび「もっと!」というОさんの注意があって、それから強くブレーキを踏み、それでもようやく渋滞の最後尾の少し手前で止まることができて、私は冷や汗をかきながら、Оさんに「ありがとうございました」とお礼を申し上げた。Оさんはただうなずくだけで、下手な運転をした私をとがめることなどなさらなかった。
また、3年間勤めた会社を退職する際、その時観光事業部は経堂にあったので、八幡山の本社まで、役員への退職あいさつのため課長が同行して下さった。社長室のあと、Оさんの席に伺い、それまでのお礼を申し上げると、Оさんは課長に向かってひと言、「こういう奴を辞めさせると、お前が苦労するんだぞ」と言って下さり、私にも笑顔を向けて下さった。過酷とも言える業務についていた3年間だったが、離れた部署でも見ていて下さった方があるということを実感したそのお言葉は、長く私の会社員生活の自信となったものである。
さらにFacebookでお付き合いをいただくようになってから、私が灰田先生の歌を歌わせていただき、Facebook上でお知らせすると、「私より一回り以上下の年代で、昔の歌をこんなに歌える人を知りません。」とのお言葉をいただいたこともある。大学を出てはじめて勤めた会社でお世話になった方は数多いが、直属の上司・部下の関係ではなかったけれども、Оさんは私にとって恩人と呼ぶべき存在のお一人だった。週末にご葬儀にお邪魔する予定にしてはいるが、何よりまずは、急ぎご冥福をお祈りする次第である。
灰田有紀彦先生のご命日に、私の履歴上の恩人のことを書かせていただいたが、一貫して思うのは、人生のしるべを与えて下さった先人、先達への感謝の思いである。願わくは、私自身も後進に何かをもたらし、慕われる存在でありつづけたい。そうすることが、かつて恵みをいただいた先達の方々への、私なりの恩返しなのだと思うばかりである。
恥ずかしながら、昔日の思い出のために
2023(令和5)年10月16日
小田原漂情
Vol.325 「日の要求」‐森鷗外に学んだ塾のあり方
2023年09月13日
今年春から、『スーパー読解「舞姫」』の制作作業に取りかかり、5月末の同書出来後は、ひきつづき『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』の制作にうつった上、さらに時節柄夏期講習の準備が重なって、大変慌ただしく、しかし充実した半年間を送って来た。
この夏刊行した2冊とも、許可・許諾申請を要する箇所が多かったから、通常の本づくりよりも要する作業が多く、多忙をきわめた次第であった。
その多忙な期間中、『舞姫』に関して鷗外に関する書物・資料を集めた中に、県立神奈川近代文学館特別展「森鴎外展―近代の扉をひらく」図録(2009年4月25日発行)があり、「日の要求」という言葉をふくむ一文に出会った。同書より鷗外の文章を引用する。
<日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑(ないがしろ)にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことができないだらう。
-「妄想」から>
同書の小泉浩一郎氏の部門解説を参考にさせていただき、私なりに解釈してみると、「日の要求」とは、鷗外が自身の父・静雄に抱いた羨望、「市井の医者として日々の務めをこつこつと果(た)」し、「どんな患者にも全幅の精神をもって対」していた姿に見た、毎日毎日の仕事の要請に誠実に応える生き方と、静雄をそのようにあらしめた職業意識、その日常のことを言うのであろう。「妄想」から引用されている「自分はどうしてそういう境地に身を置くことができないだろう」という言葉に、鷗外の「羨望」の思いが如実にあらわれているのである。
このくだりを読んだあと、『スーパー読解「舞姫」』を作りながら、私の心中には「日の要求」がずしりと大きな位置を占めていた。これこそが私のあるべき姿ではないか。すなわち私の、そして言問学舎の「日の要求」は、日々塾に学びに来てくれる子どもたちのために、持てる力を注ぎつくすことである。一日一日、子どもたちに真剣に対峙すること、それをおろそかにして、「真の国語」の完成もあり得ない。
それ以来さらに力を入れ、中・高生を含めて音読を重ねている。鷗外の『舞姫』はもちろん、中島 敦の『山月記』 (以上高校生)、魯迅の『故郷』、井上ひさし『握手』、三浦哲郎『盆土産』、向田邦子『字のない葉書』(以上中学生)などである。
文章の音読を通した「真の国語」の効用については稿を改め、「ひろく一般のみなさまへ」で近日中にお伝えさせていただきたい。
※音読、「真の国語」ともかかわりの深い歌唱「長崎の鐘」・「新しき」を、2023年9月19日までYouTubeで公開しておりました。同じ動画を、『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』付属の音読DVDにてご覧いただくことができます。
この夏刊行した2冊とも、許可・許諾申請を要する箇所が多かったから、通常の本づくりよりも要する作業が多く、多忙をきわめた次第であった。
その多忙な期間中、『舞姫』に関して鷗外に関する書物・資料を集めた中に、県立神奈川近代文学館特別展「森鴎外展―近代の扉をひらく」図録(2009年4月25日発行)があり、「日の要求」という言葉をふくむ一文に出会った。同書より鷗外の文章を引用する。
<日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑(ないがしろ)にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことができないだらう。
-「妄想」から>
同書の小泉浩一郎氏の部門解説を参考にさせていただき、私なりに解釈してみると、「日の要求」とは、鷗外が自身の父・静雄に抱いた羨望、「市井の医者として日々の務めをこつこつと果(た)」し、「どんな患者にも全幅の精神をもって対」していた姿に見た、毎日毎日の仕事の要請に誠実に応える生き方と、静雄をそのようにあらしめた職業意識、その日常のことを言うのであろう。「妄想」から引用されている「自分はどうしてそういう境地に身を置くことができないだろう」という言葉に、鷗外の「羨望」の思いが如実にあらわれているのである。
このくだりを読んだあと、『スーパー読解「舞姫」』を作りながら、私の心中には「日の要求」がずしりと大きな位置を占めていた。これこそが私のあるべき姿ではないか。すなわち私の、そして言問学舎の「日の要求」は、日々塾に学びに来てくれる子どもたちのために、持てる力を注ぎつくすことである。一日一日、子どもたちに真剣に対峙すること、それをおろそかにして、「真の国語」の完成もあり得ない。
それ以来さらに力を入れ、中・高生を含めて音読を重ねている。鷗外の『舞姫』はもちろん、中島 敦の『山月記』 (以上高校生)、魯迅の『故郷』、井上ひさし『握手』、三浦哲郎『盆土産』、向田邦子『字のない葉書』(以上中学生)などである。
文章の音読を通した「真の国語」の効用については稿を改め、「ひろく一般のみなさまへ」で近日中にお伝えさせていただきたい。
※音読、「真の国語」ともかかわりの深い歌唱「長崎の鐘」・「新しき」を、2023年9月19日までYouTubeで公開しておりました。同じ動画を、『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』付属の音読DVDにてご覧いただくことができます。