言問ねこ塾長日記

季節講習会のご案内をしてまいります。

Vol.264 「塾」とは何か?

2017年03月03日

大上段に構えたタイトルだが、「塾」を普通名詞であり、「塾一般の定義」としたなら、幾通りもの言説が成り立ち、どれか一つの正論というものはなくなってしまうから、ここで述べるのは、私が「塾」をどのように考えているかの表明、すなわち私論である。

 そして、タイトルが「問い」だから、「答え」を先にひと言で言ってしまうと、私は「塾」とは、「人を育てるところ」だと考えている。

 もちろん、こんにちの世で求められる現実の「塾」には、世情にあわせたさまざまなニーズがあり、それらに対しては、日々の記事で随時お知らせをさせていただいている。だからここでは、「人」=「子ども」を「育てる」面においての、私の存念を述べさせていただきたい。

 古い話だが、昭和の最後の年(昭和63年=1988年)、私は25歳だったが、最初の転職をした。転職先は学習参考書の出版社で、だからもう30年近く、教育業界で生きて来たことになる。その会社の中途採用の入社試験で、何文字だったか忘れたが短い作文があり、まさに「塾」に対してあなたの思うところを述べて下さい、という設問があったのだ。

 私はその時、「塾とは人を育てるものだと考える。緒方洪庵の『適塾(適々斎塾)』や吉田松陰の『松下村塾』が、有為の人材を多く送り出したように。」という内容の文を書いて出したことを、時々思い出す。めぐり巡ってこの言問学舎をはじめるに至った契機と存念は、必ずしもその通りではないけれど。

 ただ、「学習塾」である言問学舎を経営しながら、やはり「塾」としての本義の過半が「人を育てる」ことにあるのは間違いないと、つねづね思うのも事実である。また適塾や松下村塾を挙げたのは、現実に塾の運営をするようなポジションでのことではなかったからで、昨今よく言われる「リーダーとなりうる人材の育成」などを指針とするのでなく、縁があり、何かを求めている子どもたちの役に立ちつつ、その子たちをしっかり育てて行くことが、私の持ち場であると考える(もちろん「リーダー」の資質を持つ子を伸ばすことにも、十分魅力を認めるものではある)。

 小学生から思春期にかけ、子どもたちには壁があり、悩みがあり、それは親御さんたちもまた同様であろう。勉強を教え、学力を高めるのは当然だが、一人一人の成長途上の壁や悩みと向き合って、その上で受験・進学という大きな夢を実現させることに、私と言問学舎の役割があると思うのである。

 時には、なまけたい、あるいは悪ふざけしたい子どもたちにきびしく接する必要もある。それは、「勉強」において、なおさらのことがある。子どもの頃につらい思いを乗り越えて成長することは、生きる上で本当に大きなことだ。漢字をしっかり書く、計算をきちんとする、途中式をこつこつ書く、といったことが、あとの長い実人生で役に立つということなど、当事者である子どもたちにはわからない。だから大人が、うまくそうしたことを習慣化させてやることも、重要なのだ。

 また、「国語の力」をできるだけ多くの子どもたちに伝えることが、いま一つの大きな役割である。本を読むことで、いろいろな人の考えを知ることができるということは、古来言われている国語のすぐれた特性の一つだが、言葉の持つ音韻が、極言すれば人を救い、生かし、力を与えるということをも、具現化して子どもたちに手渡したい。以上を総合したものが言問学舎の「塾」としての姿であり、私の考える「塾」のスタイルという、標題の問いに対する答えである。

※明日・明後日と、「春期講習&新学期説明会」を開催します。詳細はリンクにてご覧下さい。
http://blog5.kotogaku.co.jp/article/178926136.html

◇電話番号は以下の通りです。 
 03‐5805‐7817 舎主・小田原漂情までお願いします。
 メールはフォームよりお願いします。

言問学舎の生のすがたは、こちらの動画からもご覧いただけます!
https://www.youtube.com/watch?v=c2OdlIl8T44

国語の勉強をお手伝いする国語専門サイト・国語力.com
http://www.kokugoryoku.com

 
posted by hyojo at 18:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.263 研鑽と進化を

2017年02月11日

 今日は建国記念日。東京都と神奈川県の私立高校の入試日2日目である。昨日につづき、高校入試と大学入試に挑戦している受験生たちがいる。みな長く通ってくれている子たちであり、今朝はいろいろなことが気になって、暗いうちから起き出してしまった。

 今年も二度ほど書いているが、受験生を送り出したあとは、「祈りの気持ち」になる。これはいわゆる「神だのみ」とは、すこし違う。同じ「祈る」にしても、後者は「どだい無理と思われるものを、神にすがって何とかして欲しいと願う」意の言葉と思われる。しかし受験生の成功を最後に祈るのは、当日の体調や出題内容の適不適、そして何より、受けた本人が十分力を出し切れるかどうか、なのである。

 とくに、受験するのは一人一人の当人たちだから、最後の部分が何よりも気がかりだ。長く受験指導をしている中では、予想できなかったような例も当然あるし、今年も毎日、大学受験生の帰路報告を受けながら、平素の力を出し切ることのむずかしさを、改めて感じているところでもある。送り出すまで能う限りの指導をして、最後は心から合格を祈る。毎年この時期、この2月は、同じことの繰り返しだ。

 先日、都下にある和食のお店に、久しぶりにお邪魔して来た。何度かお邪魔しているのだが、ご主人の料理にかける研鑽の思いは敬服に値するもので、今回もまた、その料理の技の冴えたるや、凄味とまで言えるものを感じた。私も毎年繰り返す受験指導であり、日々の国語指導、その他の教科指導だが、一年一年、いや一日一日、進化をつづけなければと誓う次第である。


posted by hyojo at 12:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.262 国語のアクティブラーニング‐おくればせながら今年の抱負として

2017年02月07日

 今年もまた、中学受験を終え、大学受験の一般入試がはじまり、さらに今週の金曜日から、高校受験の生徒たちが、それぞれの挑戦をはじめる。

大学を卒業してそのまま教職に就いた友人たちがすでに30年以上、こうしたなりわいを重ねていることを思えば、まだその半分にも満たぬ15年目だが、それでもずいぶん長い間、受験生たちと苦楽をともにして来た思いがある。もちろん、「教育」にたずさわりはじめたのは二十代の半ばからだから、ほぼ半生を、この教育という場の一端にかかわって来たのだけれど。

 かえりみれば、私自身は歌人として、二十代から三十代半ばまでは、短歌という場を、生きる上での主たる場所としていた。文学上の立脚点は別にして、いくつかの偶然が、四十前後から、「塾」という私教育の現場で生きることを、私の身の上に課したのである。むろん短歌が主体であった時期、それが生業だったわけではない。そのころ生業として勤めていた出版社での経験が、今の私の生業のきっかけとなってはいる。 

 そしてまた、そのころ「塾」という仕事は、自分には向かないものだと思っていた。30年以上教職をつづけている友人たちが往時から有していたのであろう、教えることへの熱情が、若いころの私にはなかったからである。人、すなわち子どもの一生を左右することとなりうる重い職責は、二十歳過ぎの自分には負い切れぬと、その年代の私は、考えていたのだった。

 そのことが正解だったのかどうかは、わからない。ただ、二十代の頃には、自らそれを負う覚悟がなかったことは、間違いない。そして四十代にこの小さな塾をはじめ、五十半ばにさしかかろうとしている今の私には、たぶん「子どもの一生を左右する」可能性の自覚は、ありすぎるほどあるだろう。それゆえに、日々、のんびりしている子どもたちへの焦燥は、つのるばかりかも知れない。早く君たちも自覚しろと、ずつと前から言いつづけているつもりだが、この数年の子どもたちの集中力のなさ、あちらこちらへの気の散りようには、危惧を覚えてしまう。

 この、散乱しがちな子どもたちの注意を集めるために、ICT教育、アクティブラーニングとして脚光を浴びているものは、たぶん大きな効果を持っているだろう。もちろんそれらは、目先の注意を引くだけのものではなく、これからの新しい時代の可能性を追究するために、教育の重要な方向性を指し示していると、私も考えている。

 しかし、「国語のアクティブラーニング」は、目新しい手法の中にではなく、言葉そのもの、文章そのものの中にあるのだということを、今年は呼びかける年にしなければならないとも考える。昨年から手がけている新機軸を、大きく進発させる年にしたいものである。
posted by hyojo at 16:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記