言問ねこ塾長日記

言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。

Vol.324 改めての誓い

2023年08月21日

 1993(平成5)年、8月21日。そのころ私は、当時勤めていた会社で転勤したため、名古屋に住んでいた。土曜日だったその日は、当日に藤山一郎先生がお亡くなりになっていたことを知る由もなかった。

 週明けの月曜日に、新聞で訃報を知らされたのだと思う。ずっと藤山先生を「太陽のような存在」と仰ぎつづけていた私は、またその頃先生のご体調が芳しくないということを、陰ながら案じ申し上げていた。だから、永遠に来てほしくないと願っていた先生とのお別れの日が来てしまったことを、愕然としながら、かつ厳粛に受け止めた。

 その日は豊橋の書店さんと、翌年分の配本の打ち合わせのアポイントがあったのだと思う。翌日の火曜日がご葬儀ということだったが、その火曜日に上京することはできない状況だった。ただ藤山家ではご自宅で弔問を受け付けて下さっているということも、あわせて報じられていた。名古屋から豊橋まで、わずかに東京方向に身柄を移動させていた私には、打ち合わせを終えて名古屋へ戻ることは、どうしても考えられなかった。

 そこで豊橋から営業所に電話を入れ、その日の午後は半休を取って、昼過ぎに上りのこだま号で、東京へ向かったのである。地下鉄日比谷線で中目黒を過ぎ、東横線の祐天寺の駅前に降り立つと、慶応大学の学生さんたちが藤山家への案内に立ってくれていた。辻々に立つ学生服姿をたよりに藤山先生のご自宅へ向かう道すがら、頭の中では「東京ラプソディ」や「夢淡き東京」の先生のお声が、繰り返されていたように覚えている。

 ご自宅に伺った頃は、夕闇が迫りつつあった。予想されたことだが、弔問客は多く、玄関から順に先生のお柩(ひつぎ)と祭壇に導かれるようになっていた。ご自宅の中へお邪魔した時から、CDかレコードで流されている先生の歌声が聞こえていたが、感極まってお柩の前まですすみ、お顔を拝した時には「懐かしのボレロ」がかかっていた。その時の先生の歌声は、30年経った今日も、あざやかに思い出される。

 当時所属していた歌誌「歌人舎」平成5年11月号に追悼文を書かせていただいたのだが、そのうちの2か所を引用させていただきたい(引用は再掲した歌文集『わが夢わが歌』より)。
 
<先生の至言に、歌は正三角形でなければならないというお言葉がある。作曲、作詞、表現(歌い手)の三者が均等の力を持って対峙する、その緊張の上にのみすぐれた歌が成り立つのだというものである。同じく古関裕而、サトウハチロー、藤山一郎の見事な正三角の調和によりもたらされたのが、『長崎の鐘』(昭24)であろう。(後略)>

<(前略)たくさんの歌が脳裏をめぐってやまなかったが、新幹線が東京を離れるころ、ひとつの言葉がようやく私の心をまとめあげた。「長い間、ほんとうに、ありがとうございました」と。われわれが嘆き悲しむことを、決して先生はお望みにならないだろう。すべては私のこれからの、生きてある生き方においてお応えしてゆくほかはない。それだけが、今の私の唯一無二の心境なのである。>

 あれから30年。はなはだ畏れ多いことではあるが、先日私はその「長崎の鐘」と、永井隆博士の短歌に藤山先生ご自身が曲をつけられた「新しき」とを歌わせていただき、新刊の音読DVDに収録した上YouTubeでも公開させていただいた(2023年9月19日まで。JASRAC、日本コロムビア許諾済)。

 あわせて新刊に長崎および広島の原爆のこと、戦没学徒のことを書いたのは、これからの時代を生きる子どもたちに大切なことを知って欲しいと願う教育者としての思いに加え、この時の私自身の「生きてある生き方においてお応えして」ゆきたい、と願った誓いを実現するためでもある。もちろんそれは今回限りのことでなく、今後も生涯通して子どもたちに大切なことを伝え、教えつづけてゆくことを改めてお誓いし、お亡くなりになって30年となる今日のこの文の結びとさせていただきたい。

令和5(2023)年8月21日
小田原漂情
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Vol.323 伝え、教える立場として

2023年08月15日

 例年通り、11時50分から全国戦没者追悼式の中継を見て、正午に黙禱した上で、今日は春先から溜め込んでいた仕事を整理するために出社した。

 過去の戦争について子どもたちに教えることを、教育者の大きなつとめとして、私は言問学舎を創業した二十年前から欠かさずにつづけて来た。今年はそれを塾内でも拡大し、少部数ではあるがより広く対象を広げうる新刊の刊行によって、少しずつ「ひろく一般の」子どもたちにも展開していきたいと願っている。

 歴史には多くの面があり、それを教えるのはむずかしい。8月15日の全国戦没者追悼式でも、首相がアジア諸国への「反省」を意味する言葉を盛り込まなくなって久しい。もちろん今日の陛下のお言葉では、「過去を顧み、深い反省の上に立って」の一節を拝聴したが、近い将来、「顧み」て「深い反省」を向けるべき「過去」について、詳しく解説することが必要になるのではあるまいか(「反省」の意味がわからない人が多くなると想像されるため。あるいは今でも、必要なのかもしれない)。

 子どもたちの心は、総じてまっすぐで、敏感である。日本の国の過去の戦争のことについても、「知らない」、「よく知らない」ために考える機会がないのであって、知る機会を差し出してあげれば、きちんと考え、思いを書きあらわししてくれるのである。

 今般の新刊『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』収載の「忘れまい、八月六日の広島の朝を」、「『長崎を最後の被爆地に』」の二篇を、小6〜高2の国語の授業で用い、感想文を書いてもらった。その一部を紹介させていただきたい。

・(前略)原爆は長く時間がたってからも人体に影響を及ぼす。このように原爆は、長きにわたってさまざまな影響を残し、死に至らしめた。原爆は一度使用されただけでも、その後数十年もの間、爪跡を残し続ける。このあともずっと、原爆を落とされた広島、長崎が、被爆した最初と最後の都市であり続けるよう私は祈る。

・(前略)最後に印象に残った言葉を紹介する。それは、長崎の人たちが訴え続ける「長崎を最後の被爆地に」という言葉だ。なぜなら、この言葉を訴え、それを長く続けるのは、もう二度とあの原爆の苦しみを今生きている人たちに味わってほしくないからだ、ということを、私自身強く感じ、それが心に響いたからである。私はこの言葉を忘れずにこれからも過ごしていこうと思った。

・(前略)私はそもそも戦争というものがなければ、原爆などというものもなくなり、そのために苦しむ人もいなくなる、そしてみんなが平和に過ごすことができるようになると思います。ですが世界各地で戦争はまだ続いています。だれかがつらい思いをして、だれかの命が残酷に散っていく。まだまだそんな世の中なのです。
 
 今日で戦後満78年ということだから、私もその四分の三以上を生きて来たことになる。私自身の両親、その世代の人たちを含め、たくさんの方々から直接、間接に、戦前、戦中、戦後のことを教わって来た。以前にも書いたことだが、年齢的に、現在の日本の中で、教え、伝える側の立場にあるのは間違いないと思う(もちろん当時を直接知る方々から、さらに多くのことを教えていただきながら、のことではあるが)。

 その意味で、新刊『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』とクラウドファンディングについてもより多くの方々に知っていただき、ご支援を賜ることができるよう、お願いするものである。

 戦後満78年の終戦(敗戦)の日に。

令和5(2023)年8月15日
小田原漂情

★書籍のご紹介 マイベストプロ東京「国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力の完結編を出版しました!」
https://mbp-japan.com/tokyo/kotogaku/column/5142083/ 

★追悼の意を込め、昭和24(1949)年に藤山一郎先生がお歌いになった「長崎の鐘」(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)と「新しき」(永井隆作詞、藤山一郎作曲、1959年)を歌わせていただきました。本年9月19日まで、YouTube上で公開しておりました。書籍のDVDにも収録してあります(JASRAC、日本コロムビア許諾)。


★また、本年8月31日まで、本書と真の国語理念を広めるためのクラウドファンディング 「真の国語力をはぐくみ、大切なことを伝える本を広めたい!」を実施中です。よろしくお願い申し上げます。                                  
https://camp-fire.jp/projects/view/691075?list=projects_fresh


◇電話番号は以下の通りです。 
03‐5805‐7817 舎主・小田原漂情までお願いします。
メールはフォームよりお願いします。

言問学舎の生のすがたは、こちらの動画からもご覧いただけます!
https://www.youtube.com/watch?v=c2OdlIl8T44

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posted by hyojo at 19:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記

Vol.322 「長崎を最後の被爆地に」

2023年08月09日


 6日に掲載した「忘れまい、八月六日の広島の朝を」と同じく、今日の拙文のタイトルが、今般刊行した『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』中で長崎の原爆のことを書いた文章と同題であることをお断りし、お詫びを申し上げたい。お詫びというのは、毎年記しているこの8月9日という大事な日のブログに、冒頭からPRめいた言葉を置くことについてである。

 しかしながら今回の出版は、二十年にわたって提唱、実践しつづけて来た「真の国語」教育を体現するシリーズの内容上の完結篇であり、それゆえ子どもたちに、「真の国語」を学びつつ過去の出来事を知り、考える力を養ってもらうという大きな目的のもとに、広島、長崎の原爆と戦没学徒について書かせていただいた、言わば「真の国語」の現時点での集大成の位置づけのものである。だから今日、長崎の犠牲者に黙禱を捧げて考えたことを述べる上でこの言葉をお借りすることに、迷いはない。言い換えれば今回の営為は、私が過去に思考、表現し、また言問学舎で活動して来たことのすべてがおのずと収斂(しゅうれん)したものであり、子どもたちに長崎の方々の思いをよりよく理解してもらうために最善の道と考えて、今回の拙文と前述の書籍中の小文のタイトルに、「長崎を最後の被爆地に」を使わせていただいた。

 また、この言葉を小文の章題に使わせていただいたのは、この言葉こそが、「1945年8月9日以降、二度と核兵器が使用されることはなかった。」と人類史に記されるべき、究極の核廃絶のための目標だと考えられるからだ。世界から核兵器が廃絶された日、その歴史を綴った文章に、「1945年8月9日以降、二度と核兵器が使用されることはなかった。」という一文が存在する、それこそが、長崎と広島で原爆のために亡くなった犠牲者と、長く苦しんで来られた被爆者と家族(遺族)がもっとも望んでおられることではないか。そう考えると、「長崎を最後の被爆地に」という訴えを、核兵器使用の危機が取り沙汰される今こそ、日本と日本人が声高に呼びかけるべきではないのかと思われる。

 今日、2023年8月9日の長崎平和祈念式典(長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典)は、折から接近中の台風6号のために、平和公園ではなく屋内(出島メッセ)でとり行なわれた。鈴木史朗長崎市長は長崎平和宣言の冒頭、16歳で被爆し背中に大やけどを負われ、その写真をニューヨークの国連本部で掲げながら証言をなさった谷口稜曄(すみてる)さんの体験談を伝えた上で、その谷口さんの残された次の言葉を紹介した。

 「過去の苦しみなど忘れ去られつつあるようにみえます。私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。」

 「忘却」をゆるさぬために、私たちにもできること、しなければならないことがある。谷口さんが国連本部での証言でご自身の写真を掲げられた際、その刹那の谷口さんのお顔を、新聞一面の報道写真で拝見したのではあるが、私は忘れることがない(2010年のことであり、谷口さんは2017年にご逝去)。

 また今日の式典では、「平和への誓い」を被爆者代表の工藤武子さんが読み上げられた。工藤さんは父、母、姉、弟、妹の5人をがんで失い、ご自身も肺がん手術の経験があるという(妹さんは被爆当時母の胎内にいた「体内被曝者」で、2003年に56歳で亡くなられたとのこと)。ご自身を含め6人の家族ががんに冒されたという原爆の酷さ、非人道的なありようを、決して忘却させてはならない。

 また工藤さんのお父さんは、被爆14年後に肝臓がんの診断を受け、54歳で亡くなられるときには「神様、私の家族をお守り下さい」と言い残されたのだという。その願いを踏みにじって家族をがんに引き込んだ原爆の悪辣さを、忘れてはならないはずである。

 かねて、当ブログでは「一人の力は小さくとも、行動することに意義がある。」ことを述べて来た。また、広島、長崎の原爆のことを子どもたちに本の中で伝えることも、幾度かお知らせして来た。少部数の刊行ではあるが、お伝えした通り『国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力 小学5年生以上対象3』をこのほど刊行したことをご報告し、言問学舎二十年の歩みのけじめとさせていただいて、今年の8月9日の営みとしたい。

 長崎県下は、5市町に避難指示が、長崎市を含め多くの市町に「高齢者等避難」が発令されているようである。大きな災害が発生しないことを切に祈りながら、筆をおく。

令和5(2023)年8月9日
小田原漂情

★書籍のご紹介 マイベストプロ東京「国語のアクティブラーニング 音読で育てる読解力の完結編を出版しました!」
https://mbp-japan.com/tokyo/kotogaku/column/5142083/ 

★追悼の意を込め、昭和24(1949)年に藤山一郎先生がお歌いになった「長崎の鐘」(サトウハチロー作詞、古関裕而作曲)と「新しき」(永井隆作詞、藤山一郎作曲、1959年)を歌わせていただきました。本年9月19日まで、YouTube上で公開しておりました。書籍のDVDにも収録してあります(JASRAC、日本コロムビア許諾)。


◇電話番号は以下の通りです。 
 03‐5805‐7817 舎主・小田原漂情までお願いします。
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言問学舎の生のすがたは、こちらの動画からもご覧いただけます!
https://www.youtube.com/watch?v=c2OdlIl8T44

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