言問ねこ塾長日記

言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。

Vol.315 生きる道のひとつ‐表現者として

2022年09月05日

 私が常日ごろ、故灰田勝彦先生と故藤山一郎先生に私淑しており、お二方を人生の大恩人と敬愛していることは、毎年10月26日と8月21日のご命日に当ブログ(言問ねこ塾長日記)で申し上げている通りである。

 十代の終わりから二十代、三十代にかけて(1970年代の終わりから1990年代)、私がもっともよく聴き、歌っていたのは、当時「懐メロ」と言われていた、1931(昭和6)年ごろから1950年代の前半あたり(おもに昭和二十年代の後半まで)にかけての、日本の「流行歌」である。その時代を代表する大歌手でいらしたのが、藤山一郎先生であり、灰田勝彦先生であった。藤山先生は1993(平成5)年8月21日に、灰田先生は1982(昭和57)年10月26日に、お亡くなりになっている。

 お二方がなぜ私の人生の大恩人であるのか、またお二方への私の思いということは、これまでも、またこれからも毎年ご命日に述べることであるゆえ、今日は少し違う観点から、昭和前期の流行歌についての私の考えと、営為とをお話しさせていただきたい。

 先述した通り、私は十代の終わりごろから、昭和前期の流行歌を聴き、歌うことに熱中していた。灰田先生、藤山先生のほかに好きなのは、伊藤久男さん、津村謙さん、近江俊郎さん、岡本敦郎さん、小畑実さん、竹山逸郎さん、松平晃さん、楠木繁夫さんなど。女性では淡谷のり子さん、松島詩子さん、二葉あき子さん、平野愛子さんといったところである。

 評価や歴史的な流れは措くとして、ひとことで言えば、昭和前期の流行歌はみな言葉が美しく(例外として「措いた」部分を除き)、歌唱が正確である。さらに、昭和20年代(終戦の年を除く1946年〜1954年)の流行歌の一部には、格調高く、美しい一群の抒情曲が存在した。こうした歌が、青春期の私の心情にぴったりであったこと、自身のよりどころと感じられたことが、その大きな理由であったと思われる。考えようによっては文学以上にそれらの歌にのめりこんでいた時期があったことを、還暦を目前にした今になって、実感することがある。

青春期に打ち込んだものをそのまま置き去りにすることなく、形にしておきたいという欲求が心奥にあるのだろうということを、否定するつもりはない。しかしそれ以上に、往時から私の考えの中に、昭和前期のすばらしい文化を継承し、伝えて行くことを、表現者としての自己の使命、生きる道のひとつと捉えるものがたしかにあった。還暦を迎えようとする今、その思いは確実に深くなっている。

東日本大震災で亡くなられた方、被災しておられる方々に届けたいと考えて、灰田勝彦先生の『新雪』を歌い、YouTubeに投稿したのが2011年のことであった。その後2015年から、灰田勝彦先生のご命日などに、言問学舎の舎内での簡素な歌と録画ではあるが、昭和前期の流行歌を歌い、伝える活動をつづけている。自分自身が還暦を迎えることと、この活動も12年間、十二支のひとめぐりを迎えるため、良い機会と考え、存念を述べさせていただいた次第である。

この夏は、岡本敦郎さんが歌われた『リラの花咲く頃』(寺尾智沙作詞、田村しげる作曲、1951年)『高原列車は行く(丘灯至夫作詞、古関裕而作曲、1954年)、『白い花の咲く頃』(寺尾智沙作詞、田村しげる作曲、1950年)を歌わせていただき、YouTubeに投稿させていただいた。今後も、表現者としての私、小田原漂情の生きる道のひとつとして、この営みをつづけて行く所存である。このことは私が提唱し、実践している「真の国語」教育と無縁でなく、ひいては子どもたちの将来にも資するものだということが、私の信念の一つでもある。

https://www.youtube.com/watch?v=_8uGfi4Gmuc 白い花の咲く頃 小田原漂情唄

https://www.youtube.com/watch?v=K35EiTmnHKU&t=264s 高原列車は行く 小田原漂情唄

https://www.youtube.com/watch?v=OyPizP0SHFc リラの花咲く頃 小田原漂情唄

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Vol.314 「長崎の鐘」

2022年08月21日

 今年の3月、長崎を訪れた。27年ぶりのことである。稲佐山のホテルに一泊し、翌日は原水爆禁止長崎会議のお仕事に携わっておられる方にご案内いただいて、原爆資料館から平和公園、故永井隆博士の如己堂(にょこどう)や山里小学校、城山小学校を見て回った。

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 今日8月21日は、故藤山一郎先生のご命日である。お亡くなりになったのは1993(平成5)年のことだから、今年で29年になる。27年前に長崎を訪ねた時は、まだ亡くなられて2年に満たない頃であったから、私は長崎の被爆について学ぶとともに、先生がお歌いになった「長崎の鐘」を実地で歌うことを、大きな目的としていたのであった(その日も長崎は強い雨だった。だからその雨の中を歩きながら、幾度も繰り返し歌ったものである)。

 「長崎の鐘」は、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲で、1949(昭和24)年に藤山一郎先生が歌われた。長崎医科大学の助教授(のち教授)として物理的療法科で放射線医学に携わり、そのため白血病を患っておられながら、原爆投下後は重傷の身を押して被爆者の治療に当たられた故永井 隆博士のご著書『長崎の鐘』に由来する曲名で、原爆の犠牲者を悼み平和を希求する佳曲である。永井博士の夫人はご自宅で原爆の犠牲となり、焼け跡からはご遺骨とロザリオだけが見つかったのだという。

 藤山先生とサトウ、古関のお三方が病床の永井博士を見舞われた際、博士は「寝ながら、筆を執って」(ステージでの藤山先生談)、次の短歌を書かれたという。

 あたらしき朝の光の射しそむる荒れ野にひびけ長崎の鐘   永井 隆

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 この歌に、藤山先生はご自身で曲を付けられて、ステージで「長崎の鐘」フルコーラスのあとに続けてお歌いになっていた(永井博士の短歌には、古関裕而作曲版もあるという)。その通り、私自身も機会のある時には歌わせていただいている。また、今も手もとにあるステージのビデオに、藤山先生の「讃美歌に近い、祈りの気持ちで歌っております」というお言葉が残されている。

 藤山一郎先生に私が与えていただいたものは、これまで毎年、この日のブログにつづって来た。来年で先生が亡くなられてから30年になるが、どれほど時が経とうとも、その得がたい恵みがそこなわれることはない。今度は私が、お返しする番である。先生から頂戴した大きな恵みを、これからの若い人たち、未来を創る子どもたちのために。先人からいただいた恵みは、形を変えて後世の人たちに伝えていく。それがご恩に報いる唯一の道である。命ある限りお報いする、ということを、藤山先生は「長崎の鐘」に関連して述べていらした。微力ではあっても、私も同じ志を抱いてこれからの営為をすすめていきたい。

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令和4(2022)年8月21日
小田原漂情
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Vol.313 今こそ「熟慮」が求められる

2022年08月15日

 8月15日。77年前の昭和20(1945)年のこの日、正午から、昭和天皇の玉音(ぎょくおん)放送があったことから、わが国ではこの日が「戦争が終わった日」とされている。対外的には、同年9月2日、東京湾上の米戦艦「ミズーリ」号艦上での降伏調印式が正式な終戦であり、また、16日以降も陸海軍の最前線における一部の(「特攻」を含む)戦闘行為と、大陸や樺太(からふと/サハリン)などで虐殺や略奪、引き揚げに伴う筆舌に尽くしがたい苦労があって、命を奪われ、辛酸を嘗めた日本国民も多かったのだが、国をあげての戦争状態が終わったのがこの8月15日であることは、間違いないだろう。

 77年前のこの日までに命を落としたとされる、民間人を含めたわが国の戦没者の数は、約310万人とされている。今日、令和4(2022)年8月15日に行なわれた「全国戦没者追悼式」で、戦後77年間迎えてきたこの日の「継続性」を感じさせたのは、天皇陛下の「過去を顧み、深い反省の上に立って」というお言葉であった。8月6日の広島、9日の長崎での平和祈念式典では、ある程度踏み込んだ「自分の言葉」で原爆の犠牲者への挨拶を述べた岸田現首相の式辞が注目されたが、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」という表現があっただけで、特にわが国の過去の歴史に言及する姿勢はみられなかった。前々任者の代で意図的に反省という方向の姿勢を出さなくなってから、前任者を含む現自民党(および公明党との連立与党)政権の立ち位置である(現職総理大臣の「反省」等の言葉の使用については、議論のかまびすしい問題であり、長年多様な変遷があり、直接的な言葉がずっと積極的に使われて来ていたのではない。前々任者の時に、「姿勢」も明らかに形としなくなったのである)。

 言うまでもなく、現在の世界は、ロシアのウクライナ侵攻により大きな危機に直面している。つい先日、中国の発射したミサイルがわが国の排他的経済水域(EEZ)内に着弾するという由々しき問題もあった。畢竟(ひっきょう)、国防力強化の論調が強まり、防衛費のGDP比2%への増額や、「核共有」などという考えまでもが公言されるようになっている(後者については、本年8月9日の本稿で言及済み)。

 だが、熟慮が求められるのは今この時であり、また、戦火に斃れた先人たちを偲ぶこの8月の、われわれ今を生きる者たちの放棄すべからざる責務であろう。岸田現首相は、9日の長崎の平和祈念式典における挨拶で、「核兵器使用の惨禍を繰り返してはならないと訴え続けてまいります」、と述べたあと、「長崎を最後の被爆地とし続けなければなりません」、「被爆の実相への理解を促す努力を重ねてまいります」と明言した。しかしその翌日には、「期待に応える有事の内閣」と記者会見で述べている。9日の長崎での挨拶と、10日の記者会見の内容を、実際にはどのように現実化するのであろうか。一見矛盾するように思われるこの対極のことがらを、見事に両立させることができたならば、岸田氏は古今無双の大政治家と後世に認められるに違いない。

 今こそ熟慮を求めたい。首相にも、今日、先人たちへの二心なき思いから参拝をした(のであろう)政治家たちにも。


令和4(2022)年8月15日
小田原漂情
posted by hyojo at 23:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 言問ねこ塾長日記