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<title>言問ねこ塾長日記</title>
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<description>言問学舎舎主・小田原漂情のブログです。</description>
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<title>Vol.353 　賜ったもの（「長崎の鐘」）を伝えつづける</title>
<description>　今日８月２１日は、藤山一郎先生のご命日である。お亡くなりになって３３年、私は高校時代には真剣に「影を慕いて」などを拝聴していたが、小学生時代から紅白歌合戦での「青い山脈」（最後は全員で合唱。のち「螢の光」の指揮へ）やTVコマーシャルなどでお声とお姿に親しんでいたから、５０年以上慕い、敬って来たことになる。　手もとに録画も残っているはずの番組で、ある時先生が「わたくしは戦前で終わった人間ですから」とおっしゃったことがある。謙遜して述べられたお言葉であろうが、私は当時「そんなは..</description>
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　今日８月２１日は、藤山一郎先生のご命日である。お亡くなりになって３３年、私は高校時代には真剣に「影を慕いて」などを拝聴していたが、小学生時代から紅白歌合戦での「青い山脈」（最後は全員で合唱。のち「螢の光」の指揮へ）やTVコマーシャルなどでお声とお姿に親しんでいたから、５０年以上慕い、敬って来たことになる。<br /><br />　手もとに録画も残っているはずの番組で、ある時先生が「わたくしは戦前で終わった人間ですから」とおっしゃったことがある。謙遜して述べられたお言葉であろうが、私は当時「そんなはずがあろうか、いやありえない」という考えをぬぐうことができず、しばらくの間そのお言葉の意味を考えつづけていた。<br /><br />　もちろん深いお言葉の示すところを私ごときがうかがい知ることなど、できるはずもない。また先生が同じようなことをおっしゃるのをお聞きしたこともなかった。はじめに考えたのは、昭和６（１９３１）年から７（１９３２）年にかけて「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」、「影を慕いて」と続いた大ヒットの時代がそれほど桁違いの人気ぶりだったのだろうか、ということだ。だが、それでは「戦前」、「戦中」の解釈に関わらず、実情にそぐわない。「藤山一郎」の行路と業績は、東京音楽学校在籍中のその一期間にとどまるものではないからだ。<br /> <br />　次いで、戦中に戦意高揚の歌を多く歌われ、海軍の嘱託（少佐待遇）として南方への慰問等海軍に帯同して活動なさったご経歴のことを言われたものかと考えた。この点について是非を論じることはできないので、先生の別の機会のお言葉を、まず紹介させていただきたい。「国費で音楽を勉強したのだから、学んだものを国にお返しするのが当然です。」（大意）<br />　 <br />　さて、かりに戦意高揚の歌を歌われ、海軍と共にあったことが一つの尺度で負の側に位置するとした上で、さらに「戦前」に対応する「戦後」の藤山先生の足跡を追ってみると、そこには常に、音楽と言葉を正しく愛し、明るさと平和を追究する姿勢が貫かれている。「青い山脈」と「長崎の鐘」がその双璧であろう。<br /><br />　とりわけ「長崎の鐘」には、永井隆博士から贈られた短歌「新しき朝の光のさしそむる荒れ野に響け長崎の鐘」にご自身で曲をおつけになり、お歌いになっている。ある時のステージでは、「長崎の鐘」について「讃美歌に近い（祈りの）心境で歌っている」という意味のことを、述べておられる。もし、かりに戦中のことが負の側に位置するのだとしたら、「長崎の鐘」が正の側の営みであることは、言を俟（ま）たない。<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/IMG_2355-1.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="IMG_2355-1.JPG" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/IMG_2355-1-thumbnail2.JPG" width="213" height="320"></a><br />          長崎の鐘<br /><br />　そして８１年前の長崎、また広島のことを、われわれ自身もかさねて学び、さらに新しい世代に伝えていかなければならない時代の要請が、ますます強くなっている。私は、常に正しく生きる道をお示し下さった藤山先生に賜った自分自身の道を全うし、「長崎の鐘」を歌いつづけることを、今日のこの日にお誓い申し上げるのみである。「長崎の鐘・新しき」のYouTubeでの今年の公開はあと１０日あまり、９月１日までであるが、「歌いつづける」ことに関しては、この動画のためにまる１年間毎日練習をした上で、録画・公開後も週に２度以上の練習を欠かしていない。いつでもどこでも歌うことのできる状態を保ちつづけることも、自分自身の大きなつとめであり、誓いであるのだ。<br /><br /><a href="https://youtu.be/jzNjIy0_21Y" target="_blank">https://youtu.be/jzNjIy0_21Y</a>　長崎の鐘・新しき　小田原漂情歌唱<br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E995B7E5B48EE381AEE99098JPEGYouTubeE382B5E383A0E3838DE382A4E383ABE58E9FE78988.png" target="_blank"><img border="0" alt="長崎の鐘JPEGYouTubeサムネイル原版.png" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E995B7E5B48EE381AEE99098JPEGYouTubeE382B5E383A0E3838DE382A4E383ABE58E9FE78988-thumbnail2.png" width="320" height="225"></a><br /><br /><br />令和８（２０２６）年８月２１日<br />小田原漂情<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol.352 『ガラスのうさぎ』の高木敏子さんに誓う</title>
<description>　本題の前に、ふるい拙歌をご紹介することをおゆるしいただきたい。　黙禱の母と二人の部屋にゐて仰ぐほかなき正午のひかり　　　『奇魂・碧魂』小田原漂情　３０年と少し前、おそらく３１歳の時の作である。８月１５日の正午、全国戦没者追悼式を母と二人で見ていた。首相は村山富市氏だったろうか。３０歳を過ぎていたから、その折のことを短歌に書きはしたが、自分自身がまだ広島平和記念資料館と長崎原爆資料館の双方を訪問しておらず（広島へは前々年に行っていたはずである）、形だけ黙禱をすることが憚られ、..</description>
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　本題の前に、ふるい拙歌をご紹介することをおゆるしいただきたい。<br /><br />　黙禱の母と二人の部屋にゐて仰ぐほかなき正午のひかり　　　『奇魂・碧魂』小田原漂情<br /><br />　３０年と少し前、おそらく３１歳の時の作である。８月１５日の正午、全国戦没者追悼式を母と二人で見ていた。首相は村山富市氏だったろうか。３０歳を過ぎていたから、その折のことを短歌に書きはしたが、自分自身がまだ広島平和記念資料館と長崎原爆資料館の双方を訪問しておらず（広島へは前々年に行っていたはずである）、形だけ黙禱をすることが憚られ、窓外の天を仰ぐだけだった。<br /><br />　その後３２歳の年に長崎原爆資料館や平和祈念像、如己堂などに手を合わせたので、それから１５日に慰霊式を視聴できる時は、ずっと黙禱することをならいとしている。今年も同様であったが、今日は陛下のお言葉のうち「過去を顧み、深い反省の上に立って」に先立って、「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」という箇所が、とりわけ強く印象に残った。<br /><br />　昨日、ネットニュースで拝見したのだが、さる８月８日に、『ガラスのうさぎ』をお書きになった高木敏子さんが亡くなられたという。『ガラスのうさぎ』については、今年の夏は２人の小学４年生が読書感想文の対象として選び、１人はだいたい書き終えた。以前にブログに書かせていただいたこともあるが、この本も、長く子どもたちが読書感想文の対象として選び、学んでいる。<br /><br />　『ガラスのうさぎ』（１９７７年１２月初版発行／金の星社）の主人公である著者の高木敏子さん（作中に登場している年代は江井敏子さん）は、１９４５（昭和２０）年３月１０日未明の東京大空襲でお母さんと２人の妹さんをなくされ、さらに８月には、新潟へ引っ越そうとしていた二宮の駅で、米軍機の機銃掃射によりお父さんをも失われた。あまつさえ、当時女学校の1年生（現在の中学１年生と同年齢）だった敏子さんは、医師から死亡診断書を受けとり、一人で役場へ行って火葬許可書と埋葬許可書をもらった上、リヤカーを頼んでお父さんのなきがらを小田原の火葬場まで運んで、お父さんの葬儀を一人で出されたのである。<br /><br />　小学６年生から中学１年生という年齢だった敏子さんは、半年にも満たぬうちに戦争で両親を相次いでなくされ、その後も大変な苦労をなさった。また戦中、小学５年生の時には、スリップの配給がなくなったためお兄さんのランニングシャツを着ることになり、そのままでは恥ずかしいので、胸のところに花の刺繡を自分でして学校に着て行ったところ、担任の先生にひどく怒られ、その場でほどかされたという。その時代のことを『ガラスのうさぎ』ではこう書いている。‐「何事もすべてご無理、ごもっともと、受けいれなければならない時代」。それは、まさに思春期にその時代を生きぬかれた敏子さんご自身の経験であり、後世にそれを伝えるために、ご自身の言葉で記してあるのだ。「あとがき」のお言葉も引用させていただきたい。<br />「今は、この『ガラスのうさぎ』が一人でも多くの子どもさんたちの手に渡り、私の証言をとおして、戦争の無残さや虚しさを、また生命の尊さを知っていただき、平和を大切にする心を育むことに少しでも役立てばと念じています。」<br /><br />　また本文の末尾では、日本国憲法第九条を引用され、感慨をお述べになっている。第九条ともども、引用させていただく（本文は抜粋）。<br /><br />「第九条　日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。<br />②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。<br /><br />　この文面は、わたしにとって、まさに輝く太陽のように、まぶしく見えた。これなんだ、もう私たち国民は永久に戦争を放棄したのだ。　中略<br />　わたしは生きている限り、この憲法を守りつづけたい。そしてわたしの次の世代、またその次の世代へと、この悲しみを伝えていきたいと思った。二度と戦争をくり返さないために。」<br />　<br />　私自身もこの『ガラスのうさぎ』をいく度も読み、戦争の無残さや虚しさ、生命の尊さを教えていただいた。また読書感想文以外の授業でも、子どもたちに高木敏子さんの証言を伝えることがある。今日、高木さんが世を去られた今年の８月１５日に、改めて高木さんの証言とお心を語り継ぎ、伝えつづけていくことを、誓うものである。<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E382ACE383A9E382B9E381AEE38186E38195E3818E-12ef9.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="ガラスのうさぎ.JPG" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E382ACE383A9E382B9E381AEE38186E38195E3818E-12ef9-thumbnail2.JPG" width="240" height="320"></a><br />ＪＲ東海道本線二宮駅前　ガラスのうさぎの像<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E382ACE383A9E382B9E381AEE38186E38195E3818EE7A291E69687-4449c.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="ガラスのうさぎ碑文.JPG" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E382ACE383A9E382B9E381AEE38186E38195E3818EE7A291E69687-4449c-thumbnail2.JPG" width="320" height="240"></a><br />　　　　　　　　　　　　　　　同　碑文<br /><br />令和８（２０２６）年８月１５日<br />小田原漂情<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol.351　知り、そして言葉として伝えるべき 「嘉代子桜」のこと</title>
<description>　長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を、今年はその時間に視聴することができなかった。NHKでこの日の式典も放送するようになってから、基本的に毎年欠かさず見ているが、今年は、昨年のこの日に他界した義母の一周忌が執り行なわれたため、録画視聴とせざるを得なかった事情がある。この文章の概略をしたためていた前夜と今日のしかるべき時間に黙禱をしたことは、言うまでもない。なお長崎の原爆死没者名簿に今日奉安された方の数は２，７７３人、これまでの総人数が２０４，７０８人に及んだという。　鈴木志朗長..</description>
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<dc:date>2026-08-09T17:12:58+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を、今年はその時間に視聴することができなかった。NHKでこの日の式典も放送するようになってから、基本的に毎年欠かさず見ているが、今年は、昨年のこの日に他界した義母の一周忌が執り行なわれたため、録画視聴とせざるを得なかった事情がある。この文章の概略をしたためていた前夜と今日のしかるべき時間に黙禱をしたことは、言うまでもない。なお長崎の原爆死没者名簿に今日奉安された方の数は２，７７３人、これまでの総人数が２０４，７０８人に及んだという。<br /><br />　鈴木志朗長崎市長の長崎平和宣言は時に深く心に刺さり、時に力強く響いたが、特に記録したい言葉を掲げさせていただく。<br /><br />‐広島・長崎への原爆投下は、人間が人間への核兵器使用という一線すら越えてしまう現実を突きつけました。<br />‐「平和の原点は、人間(ひと)の痛みがわかる心を持つこと。」（故𠮷田勝二さんの言葉）<br />‐核抑止論は、極めて危うい。核兵器は「必要悪」ではなく「絶対悪」であり、人類と核兵器は決して共存できない、と。<br /><br />　また被爆者代表、６歳の時に被爆された本村チヨ子さんの「平和への誓い」からも、引用させていただくことをおゆるしいただきたい。<br /><br />‐人と人が分かり合うためには対話しかない<br />‐私は平和とは命を守ること、命とは何よりも優先されるべきものだと思います。<br /><br />　いずれも引用させていただいたのは一部分の、強く響いて来る言葉だけである。インターネットでどちらも全文読むことができるから、ぜひご一読いただきたい。<br /><br />今日、あらためて思い、表明するのは、言葉を理解し、受けとめることが、人間の営みとしてもっとも重要だということである。<br /><br />　６日の文章でも、今年は言問学舎の子どもたちの読書感想文のことを書かせていただいたが、長崎に関しては、やはり小学４年生の１人が、『かよこ桜』（山本典人作／新日本出版社）を選び、読んでいる。現在の十歳にもならぬ子たちが、８１年前に原爆で命を奪われた方たちのことを、その言葉を、まっすぐ受け止めているのである。<br /><br />　この本の主人公である林 嘉代子さんは、当時長崎県立高等女学校の４年生で（現在の高校1年生にあたる）、学徒動員によって城山小学校で働いていた。昭和２０（１９４５）年８月９日、その日の朝、嘉代子さんはめずらしく、「今日は行きたくない」と言って、一度家を出たのに引き返して来たそうである。お母さんは喉まで出かかった「休んだら」という言葉を押しとどめ、彼女を励まして送り出した。だが数時間後、爆心地から５００メートルほどの位置にある城山小学校は熱線と爆風、放射能に見舞われ、業火に包まれた。お母さんは必死に城山小学校まで走って行こうとしたが、近所の人に止められて、なすすべもなく城山小学校のある浦上の方角を見やるしかなかったという。<br /><br />　翌日朝から、お父さんとお母さんは嘉代子さんをさがして歩かれたが、嘉代子さんと会うことはできず、何日か過ぎてから、一度は嘉代子さんと歯並びの似た人の遺体を連れ帰り、弔いをした。しかしやがて嘉代子さんがどこかで待っているという思いが強くなり、ふたたびお父さんとともにさがし歩いて、８月３０日に、城山小学校の３階で、嘉代子さんのなきがらと出会うことができたのである。<br /><br />　のちにお母さんは、嘉代子さんと、一緒に亡くなったおおぜいの女学生たちの魂を慰めるために、城山小学校に桜の苗木を贈られた。その桜は「嘉代子桜」と名づけられ、嘉代子さんや同じ時に亡くなった女学生、原爆のために亡くなった方たちを追悼し、平和への願いを伝えつづけている。お母さんは、「あの時自分が仕事に送り出さなければ」と悔やむ思いをずっとかかえこんでいらしたそうである。また嘉代子桜の2世、もとの原木から接ぎ木した桜の木が長崎市内ばかりでなく全国の諸都市に植樹され、林 嘉代子さんの悲劇と恒久平和への思いとを、受け継ぎ伝えつづけている。<br /><br />参照　『かよこ桜』　山本典人作／新日本出版社、１９８１年７月１５日初版発行<br />被爆前の日常アーカイブ「被爆前の長崎の日常／嘉代子さんとの思い出」長崎大学核兵器廃絶研究センター（RECNA）、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館　ほか<br /><br />　私は２０２２年に長崎をたずねた際、案内して下さった方が城山小学校へお導き下さり、嘉代子桜のことも教えていただいて、桜や嘉代子さんのお名前の記された殉難者名簿なども撮影した。その写真を掲載し、嘉代子さんと原爆で犠牲となった方々を悼む思いを捧げたい。また末尾に、現在公開中の「長崎の鐘・新しき」のURLも記載させていただく。<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E59889E4BBA3E5AD90E6A19C.JPG" 
target="_blank"><img border="0" alt="嘉代子桜.JPG" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E59889E4BBA3E5AD90E6A19C-thumbnail2.JPG" width="320" height="235"></a><br />　　　　　　　　　　　　　　　嘉代子桜<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E4B889E88FB1E585B5E599A8E8A3BDE4BD9CE68980E996A2E4BF82E58E9FE78886E6AE89E99BA3E88085E5908DE7B0BF.jpeg" target="_blank"><img border="0" alt="三菱兵器製作所関係原爆殉難者名簿.jpeg" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E4B889E88FB1E585B5E599A8E8A3BDE4BD9CE68980E996A2E4BF82E58E9FE78886E6AE89E99BA3E88085E5908DE7B0BF-thumbnail2.jpeg" width="320" height="162"></a><br />　　　　　　　三菱兵器製作所関係原爆殉難者名簿<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/IMG_2366-1.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="IMG_2366-1.JPG" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/IMG_2366-1-thumbnail2.JPG" width="213" height="320"></a><br />　　　　　城山小学校平和記念館<br /><br /><a href="https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y</a><br />長崎の鐘・新しき　小田原漂情歌唱<br /><br /><br />令和８（２０２６）年８月９日<br />小田原漂情<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol. 350  ８月６日、読み、感じとる力の大切さを思う</title>
<description>　８月６日、今年もまたこの日を迎えた。５年前から、この８月６日は平日でも夏期講習のコマを作らず、午後からのみの授業にして、８時から始まる平和記念式典（広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式）のテレビ中継を必ず視聴し、８時１５分には黙禱をするようにしている。今年もその通り、８時前からテレビをつけて、黙禱の時を待った。この１年間で新たに原爆死没者名簿に書き加えられた方の数は４，３９３人、これまでの総数は３５３，６３９人になったという。　今年はとりわけ、ものごとや言葉と向き合い、感..</description>
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　８月６日、今年もまたこの日を迎えた。５年前から、この８月６日は平日でも夏期講習のコマを作らず、午後からのみの授業にして、８時から始まる平和記念式典（広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式）のテレビ中継を必ず視聴し、８時１５分には黙禱をするようにしている。今年もその通り、８時前からテレビをつけて、黙禱の時を待った。この１年間で新たに原爆死没者名簿に書き加えられた方の数は４，３９３人、これまでの総数は３５３，６３９人になったという。<br /><br />　今年はとりわけ、ものごとや言葉と向き合い、感じとる力の大切さということへの思いを深くした。<br /> <br /> 　言問学舎をはじめた２００３年以降、この８月６日の広島の総理大臣あいさつで、本心からしっかり広島、長崎の原爆と被爆者の方々に向き合い、自分の言葉で語りかけたのは（そのような内容を心からの言葉で発したと感じられたのは）、２０１０年の菅直人首相、２０２５年の石破茂首相の２人だけである（２０００年代は新聞記事で読んだ機会を含む。また被爆者援護、黒い雨降雨地域についての表明は別である）。<br /> <br />　広島市長は、当初は秋葉忠利市長であり、現在の松井一實市長になって、今年で１５年だという。長崎市長は、凶弾に斃れた伊藤一長市長、１６年務められた田上富久市長、そして現在の鈴木支朗市長と続く。この市長たちの「平和宣言」（長崎が本島等市長だった頃からずっと新聞記事では読んでいた）の真摯さ、重さには、先の２人の首相の言葉とて、遠く及ばないものがあり、私も深く勉強したものである。<br /> <br />　また今年は言問学舎内で、２人の小学４年生が『つるにのって』（アニメ版・ミホ・シボ原案／金の星社）を読んで、読書感想文を書いている。２人とも半ばを過ぎ、当人たちが深くは思い及ばなかった佐々木禎子さんの死の原因と、そのことについて感じることを、考えてもらうところへさしかかっている。幼い、と言っていい年齢の子たちだが、手がかりを少しさし出して考えさせると、それまで考えなずんでいた子も一生懸命考えて、その子から真剣な言葉が生まれて来る。<br /><br />　こうした感性、感受性は、持って生まれたものでもあるし、小学生、中学生前半までの多感であり思考も柔らかなものである時期に、それを育むできごとや言葉との出会いを持つか否かによるところも大きいだろう。国語の果たす役割が、非常に大きいことを思う。そして、１人、２人ずつにその機会を提供するささやかな営みではあっても、たゆまずにそれをつづけることこそが、子どもたちの未来を守るために私にできるただ一つの道だ。そのことを、今日のこども代表の「平和への誓い」を聞きながら、改めて確認した次第である。<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/EFBC92EFBC90EFBC92EFBC95E68A98E3828AE9B6B4jpeg.png" target="_blank"><img border="0" alt="２０２５折り鶴jpeg.png" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/EFBC92EFBC90EFBC92EFBC95E68A98E3828AE9B6B4jpeg-thumbnail2.png" width="240" height="320"></a><br /><br />※画像は昨年生徒と２人で折った折り鶴を広島市にお送りし、原爆の子の像に捧げていただいたもの<br /><br />令和８（２０２６）年８月６日<br />小田原漂情<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol.349 『つるにのって』２冊</title>
<description>　起筆に先立って、令和８年熊本地震でお亡くなりになった方々をお悔やみ申し上げ、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。　画像の本は、ミホ・シボ原案『つるにのって』アニメ版である（１９９４年４月初版発行／金の星社）。２歳の時に広島で被爆、小学６年生まで元気に成長しながら白血病（原爆症）になってしまい、回復を願って病床で鶴を折りながら中学１年生で亡くなられた佐々木禎子さん（「原爆の子の像」は彼女のために建てられた。中学校は入学したが登校できないまま他界）について伝えている。..</description>
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<dc:date>2026-07-30T15:47:00+09:00</dc:date>
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<blockquote></blockquote>　起筆に先立って、令和８年熊本地震でお亡くなりになった方々をお悔やみ申し上げ、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E381A4E3828BE381ABE381AEE381A3E381A6.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="つるにのって.JPG" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E381A4E3828BE381ABE381AEE381A3E381A6-thumbnail2.JPG" width="320" height="227"></a><br /><br />　画像の本は、ミホ・シボ原案『つるにのって』アニメ版である（１９９４年４月初版発行／金の星社）。２歳の時に広島で被爆、小学６年生まで元気に成長しながら白血病（原爆症）になってしまい、回復を願って病床で鶴を折りながら中学１年生で亡くなられた佐々木禎子さん（「原爆の子の像」は彼女のために建てられた。中学校は入学したが登校できないまま他界）について伝えている。<br /><br />　右側のものは、２２年前の２００４（平成１６）年夏、創業翌年の夏期講習のために購入した、言問学舎の永年の蔵書の１冊だ。小学３、４年生の読書感想文の課題図書としており、毎年必ず、ではないが、これまでもずっと、多くの子どもたちが夏休みの読書感想文の対象として選び、真剣に読んで、感想文を書いて来た。<br /><br />　さて、その『つるにのって』がなぜ２冊あるかというと、直接の理由はきわめて単純で、同じ日の同じ時間に出席する４年生２人が、この本を選んだからである。そもそも、子どもたちが選んだ本を書面で各ご家庭に連絡し、購入するか図書館で借りるかして、２度目の授業からは持参してもらう仕組みにしているので、本来はそれぞれが自分の読む本を持って来て、授業を行なう。しかしこの本には現在、そうはいかない事情がある。<br /><br />　この本も、たしか当初は全国読書感想文コンクールの課題図書でもあったはずだから（未確認）、文京区立の図書館に置かれていたのだが、何年か前に借りに行った子が「なかった」と教えてくれた（こちらも文京区図書館での確認は取っていない）。またネット市場で検索しても、新刊本はなく、中古品ばかりである。かつ、「アニメ版」でないもとの本を購入しようとネットで検索した時も、購入できない状態であった。生徒が読む「アニメ版」について、新刊本なら買ってもらってもいいが、小学生のご家庭に、「中古品を買って下さい」と言うわけにもいかない。そのため、先日当方で購入したのが画像の左側のものである。<br /><br />　もちろん、「古本」を買ってもらうわけにいかないというのは、対象が子どもさんのご家庭だからである。この本がまさしく証明しているように、過去に印刷され、出版されている「本」のありがたみというものを、私自身は熟知している。また、「真の国語」を身につけてもらうきわめて大切な機会である夏期講習で、選んでくれた子どもたちが読むためなら、極言すれば良い本は何冊あってもいい。だから２人目の子が『つるにのって』を選び、時間割を確認した時、この２冊目の『つるにのって』を購入することに、まったく迷いはなかった。<br /><br />　何よりも、佐々木禎子さんのことを、これからの時代の子たちに知ってもらうことは、私にとって大きなつとめである。年に１人、２人ずつでも、子どもたちが禎子さんのことを知り、原爆と戦争、平和について考え、生きて行ってくれるなら、「真の国語」を教える目的に、さらに大きな意義が加えられるだろう。自著においても禎子さんのことを書かせていただき、子どもたちのために平和な国を守っていくことを志す立場として、それはきわめて重要な営みであると考える。今年もどんなことを子どもたちが書いてくれるか、大いに注目している。<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol.348 『スーパー読解「羅生門』、『　〃　「山月記」』、『　〃　舞姫』をそろえて</title>
<description>　このほど言問学舎より、『スーパー読解「羅生門」』を上梓した。２０１９年３月に出版事業をはじめてから７年、１４冊目（国語教材としては１０冊目）の本であるとともに、真の国語を教える『スーパー読解』シリーズの第３巻である。シリーズ第１巻の『スーパー読解「舞姫」』が２０２３年５月発行、第２巻『スーパー読解「山月記」』が２０２５年６月発行であるから、３巻すべてを一学期に発行して来たことになる。どの作品も、高校の国語の授業で一学期の期末テストの範囲になることが多いためだ（『山月記』は近..</description>
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　このほど言問学舎より、『スーパー読解「羅生門」』を上梓した。２０１９年３月に出版事業をはじめてから７年、１４冊目（国語教材としては１０冊目）の本であるとともに、真の国語を教える『スーパー読解』シリーズの第３巻である。シリーズ第１巻の『スーパー読解「舞姫」』が２０２３年５月発行、第２巻『スーパー読解「山月記」』が２０２５年６月発行であるから、３巻すべてを一学期に発行して来たことになる。どの作品も、高校の国語の授業で一学期の期末テストの範囲になることが多いためだ（『山月記』は近年、１年次の後半にやる学校もあるようだ）。<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/IMG_5311.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="IMG_5311.JPG" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/IMG_5311-thumbnail2.JPG" width="320" height="203"></a><br /> <br />　今回の対象である芥川龍之介の『羅生門』は、現在「言語文化」の教科書に掲載されている。行くあてのない下人が羅生門の楼上で、死体の髪の毛を抜く奇怪な老婆に憤りを覚え、正義感を燃え立たせたかと思うと、老婆が髪を抜く動機の平凡さにあきれ、逆に老婆の生死を握っているという優越感から、最後は老婆の言葉を盾に取って「引剝ぎ（ひはぎ）」に転じ、悪への道に踏み出して行く過程を、巧みな心理描写で描いた短編である。<br /><br />　長く高校１年生の教科書に掲載されており、各高校でも一学期に学習させることがほとんどであると思うが、それはこの作品が「高校国語への導入のテクスト」として、適しているためだろう。「『羅生門』から高校国語へ、高校生の思考法へ」から引用する。<br />　<br />　＜では、「羅生門」を高校生が学ぶ理由、その大きな意味とは何でしょうか。それは、この小説が「高校国語」への入り口として、適切な読み物であることです。<br />　高校国語、高校生の思考法では、中学生までとは少し違って、自分がどう感じたか、だけでなく、それが人間としての真実、真理にどうつながっていて、そこから何が読みとれるかということを、「物語の筋を追う」だけの視点でなく論理的にとらえ、高いレベルで解明することを求められます。＞<br /><br />　このような「高校国語」を知り、学ぶのに、『羅生門』は最適なのである。本書では原典の「羅城門の上層に登りて死人を見たる盗人の物語」（『今昔物語』）、『鼻』（芥川龍之介）を掲載して、比較・照合して考える道すじを示している。またQRコードから『羅生門』本文の音読動画を視聴することができ、まず作品そのものに親しむことができるのも、大きな特色である。<br /><a href="https://www.youtube.com/watch?v=5XDS513ZOrM" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=5XDS513ZOrM</a>　『羅生門』本文音読動画第１回　YouTube言問学舎<br /><br />　中島敦の『山月記』は、現在の「文学国語」の教科書になるまでは、２、３年生用の「現代文」の教科書に掲載されていて、ほぼ2年時に扱われていた。４７年前に私が高校２年生だった時にも同様で（当時は「現代国語」）、思春期真っ只中の当時、李徴の「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」に、どっぷりと捉えられた記憶が鮮烈である。同じことを、私より上の年代の方たちを含め、多くの成人の読者から、『スーパー読解「山月記」』の読後感としてお寄せいただいている。この小説は、ぜひ１６歳、１７歳という年齢において深く読み、自分自身の人生にかかわるものとして何かを受け取ってほしい。『スーパー読解「山月記」』にもそのための工夫を随所に盛りこんである。<br /><br />　森鷗外の『舞姫』も、以前は「現代文」（私の頃は「現代国語」）の教科書に載っていた。そしてだいたい、３年時に学習することが多かった。私は高校生当時も「現代国語」の教科書に載っている小説として違和感なく読んでいたが（鷗外はじめ明治期の小説を読む中で文語のものを比較的多く読んでいたためもある）、現在の高校生には「古文の文章で書かれている」わけで、難解に感じる人が多いだろう。そのため『スーパー読解「舞姫」』には、『舞姫』原文の格調をそこなわず、かつわかりやすい現代語訳（小田原漂情訳）を掲載しており、その上で豊太郎の心情や明治の日本人留学者の目から見た欧州（もしくはドイツ）の様子など、『舞姫』で読みとるべき重要なポイントを深く考察することで、真の国語力、読解力を培うことができると好評である。特に『スーパー読解「舞姫」』をしっかり理解すれば、論説文の読解力も見違えるように向上する。分かりにくい文章、未知のことがらから文章の奥にあるものを読みとる力がつくからである。<br /><br />　今回の『スーパー読解「羅生門」』刊行によって、『スーパー読解』シリーズは『羅生門』、『山月記』、『舞姫』の３点をそろえたこととなる。いわば高校三部作である。高校国語の要とも言うべきこの３点をそろえたことで、『国語のアクティブラーニング　音読で育てる読解力』第１巻（全６巻）からスタートした言問学舎の出版事業も、土台を整えたことになる。国語教材の出版は、中学校教科書の掲載作品に移り、来年『スーパー読解「故郷」』の刊行を計画している。中学３年生の教科書に掲載されている魯迅の名作である。<br /><br />　『スーパー読解「羅生門』、『　〃　「山月記」』、『　〃　舞姫』３点完成を折り返し点として、さらに本義を追究するのみである。<a name="more"></a>

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<title>Vol.347 野球小僧は永遠に‐灰田勝彦先生と長嶋茂雄さん</title>
<description>　大学３年生の秋ごろから、私は友人たちと飲んで就職の話になると、「俺はビクター音楽産業（現・ビクターエンタテインメント）を受けるんだ」と騒いでいた（当時、就職活動はだいたい４年になってから）。むろん、２年生の１０月２６日（昭和５７年／１９８２年）に亡くなられた灰田勝彦先生をお慕いする気持ちからである。今でも親しく付き合っており、５年前には『たまきはる海のいのちを‐三陸の鉄路よ永遠に』の取材で仙台から宮古まで連れて回ってくれた親友は、「そういう強い気持ちがあれば必ず入れるよ」と..</description>
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<dc:creator>hyojo</dc:creator>
<dc:date>2025-10-26T00:21:49+09:00</dc:date>
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　大学３年生の秋ごろから、私は友人たちと飲んで就職の話になると、「俺はビクター音楽産業（現・ビクターエンタテインメント）を受けるんだ」と騒いでいた（当時、就職活動はだいたい４年になってから）。むろん、２年生の１０月２６日（昭和５７年／１９８２年）に亡くなられた灰田勝彦先生をお慕いする気持ちからである。今でも親しく付き合っており、５年前には『たまきはる海のいのちを‐三陸の鉄路よ永遠に』の取材で仙台から宮古まで連れて回ってくれた親友は、「そういう強い気持ちがあれば必ず入れるよ」と言ってくれた。わけあって実際にビクターを受けることはなかったが、その後も灰田先生のレコードやCDを購入するたびに、ビクター音楽産業、のちにはビクターエンタテインメントの社名に、あこがれの気持ちを抱いて見入ったものである。<br /><br />　そのビクターエンタテインメント様から許諾をいただいて、本日は「野球小僧」（佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲、灰田勝彦唄　１９５１年）を歌わせていただいた（佐伯孝夫作品はビクター専属楽曲で許諾が必要）。ご高配を賜り、かねて録画を予定していた今月２３日の前日に、許諾のお知らせをいただくことができた。「野球小僧」は灰田勝彦先生ならではの名曲だが、何しろ灰田先生は、「王選手にバッティングの講義をした」という伝説をお持ちであり、ご自身の野球チームでは７０歳になってもエースで４番を譲らなかったというほどの、熱狂的な野球好きでいらした。お亡くなりになった４３年前、１９８２（昭和５７）年１０月２６日も、朝方はお元気で、「１時になったら日本シリーズのテレビのスイッチを入れてくれ」と奥様におっしゃっていたのだと聞く。しかし容態が急変し、午前１０時５分にお亡くなりになったのであった。<br /><br /><a href="https://www.youtube.com/watch?v=tpceQqxSX1I" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=tpceQqxSX1I</a>　　野球小僧　小田原漂情歌<br /><br />　灰田有紀彦先生、灰田勝彦先生に感謝の思いを捧げるのは毎年１０月のならいだが、今年は加えて、６月に亡くなられたミスタープロ野球、長嶋茂雄さんへの感謝と追悼の思いをも、歌につづけての語りの中で述べさせていただいた。長嶋さんが、野球という枠を超えて日本の二十世紀後半の社会を明るくして下さったということは、つとに語られるところであるが、小学６年生の時に「わが巨人軍は永久に不滅です」の言葉を聞いて感激した私としても、まったくその通りであると考える。今年はぜひ、ビクターさんから許諾をいただいて「野球小僧」を歌わせていただこう、と決意したのは、長嶋さんが亡くなられてほどなくのことであった。<br /><br />　ちなみに灰田先生と長嶋さんは、別所毅彦さんを交えたお三方で、ステージに並んで立っておられるスナップが、早津敏彦さんの書かれた『灰田有紀彦／勝彦　鈴懸の径』の巻頭口絵ページに掲載されている。こよなく野球を愛しておられた灰田先生と、ミスタープロ野球と称された長嶋さんが、今ごろは天国で、灰田先生がピッチャー、長嶋さんがバッターで対戦しているのではないかと想像される。お二方とも数えきれないほど多くの人々に、夢を与えて下さったのである。<br /><br />　大リーグでの大谷翔平選手の活躍もあってか、現在の小・中学生たちの中にも、夢中で野球をやっている子どもたちがいるのはうれしい。長嶋さんのお言葉のままに、野球小僧も永遠にグラウンドを駆け回るのであろう。<br /><br />令和７（２０２５）年１０月２６日<br />小田原漂情<a name="more"></a>

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<title>Vol.346 ただ一つの花</title>
<description>　今日１０月１６日は、灰田有紀彦先生のご命日である。お亡くなりになったのは１９８６（昭和６１）年のこの日だから、今年で３９年となった。　３９年と言えば、一人の人間が「不惑」を迎えようという年月である。それほどの長い期間、「森の小径」や「鈴懸の径」に代表される、有紀彦先生の美しい灰田メロディーとともに生きて来られた私は、なんと幸せなのだろう。「森の小径」、「鈴懸の径」に代表される美しい灰田メロディーが、時として私を救い、慰め、そして前へ進む強い力を与えてくれた。これまでにもいく..</description>
<dc:subject>言問ねこ塾長日記</dc:subject>
<dc:creator>hyojo</dc:creator>
<dc:date>2025-10-16T20:05:45+09:00</dc:date>
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　今日１０月１６日は、灰田有紀彦先生のご命日である。お亡くなりになったのは１９８６（昭和６１）年のこの日だから、今年で３９年となった。<br /><br />　３９年と言えば、一人の人間が「不惑」を迎えようという年月である。それほどの長い期間、「森の小径」や「鈴懸の径」に代表される、有紀彦先生の美しい灰田メロディーとともに生きて来られた私は、なんと幸せなのだろう。「森の小径」、「鈴懸の径」に代表される美しい灰田メロディーが、時として私を救い、慰め、そして前へ進む強い力を与えてくれた。これまでにもいく度か、この１０月の文章として書かせていただいているが、有紀彦先生の美しいメロディーと、勝彦先生の力強い、まっすぐな歌声が、正しく生きる力を与えて下さったのだ。<br /><br />　３年前まで、私は毎年勝彦先生のご命日にお墓参りをさせていただいていたが、所沢の聖地霊園にあった有紀彦先生のお墓にも、一度お参りさせていただいたことがある。有紀彦先生のお嬢様に、お連れいただいたのである。恩愛を賜った先人を偲ぶ際、お墓参りをさせていただくのは、在世中にお目にかかることのできなかった後代の者にとっては、究極に近い追慕の営みと言っていいと思うが、それはお導き下さる方があってはじめてなしうることであると、改めて感謝の思いを深くしている。勝彦先生のお墓参りに伺うようになったのも、灰田ファンの大先輩のご依頼で同道したものであったが（これもお導きである）、その際もお嬢様に、お寺の所在をお教えいただいたのであった。<br /><br />　さて、前にも書いたことがあるが、灰田有紀彦先生の作品には、勝彦先生がお歌いになり、「ハワイアン風流行歌」と呼ばれた一群がある。昨年歌わせていただいた「アロハ東京」や「ハワイのセレナーデ」、そして「ただ一つの花」などである（ほかにも、原曲がハワイアンで有紀彦先生がアレンジされた名曲がたくさんある）。「ただ一つの花」は、一昨年の１０月２６日、勝彦先生のご命日に歌わせていただき、YouTubeにアップしている。有紀彦先生のご作曲で、モアナグリークラブ及び楽団ニューモアナを通じて先生ご兄弟とともに活躍なさった永田哲夫先生が作詞されたものである。永田先生には、１９９２年の１０月２６日に、当時赤坂にあった「白石信とナレオハワイアンズの店　タバ・ルーム」で『遠い道、竝に灰田先生』の出版を記念し灰田ご兄弟を偲ぶ会を開いていただいた際、お目にかかっている。<br /><br /><a href="https://www.youtube.com/watch?v=K40Io8uZ_Bs&t=8s" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=K40Io8uZ_Bs&t=8s</a>　ただ一つの花　小田原漂情歌唱<br /><br />　ただ一つの花を胸に、ささやかな喜びを見出し、夢を持って生きた人々、灰田メロディーによって人生のしるべを見つけた人々が、おおぜいいた。私もその中の一人である。有紀彦先生のご命日であるこの日、今年もまた、先生に深い感謝を申し上げたい。<br /><br />令和７（２０２５）年１０月１６日<br />小田原漂情<a name="more"></a>

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<title>Vol.345「丘を越えて」、「青い山脈」こそ</title>
<description>　今日８月２１日は、藤山一郎先生のご命日である。お亡くなりになったのは平成５（１９９３）年のこの日だから、３２年が経過した。　３２年前のことや、今年も公開させていただいている「長崎の鐘・新しき」に関しては近年も複数回綴っているから、今日は藤山先生から賜わった大恩のうち、「明るい歌」について、お話ししたいと思う。　藤山一郎先生のデビュー曲は、昭和６（１９３１）年の「キャンプ小唄」である。つづく「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」が大ヒットし、さらに翌昭和７年には「影を慕いて」も大..</description>
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<dc:creator>hyojo</dc:creator>
<dc:date>2025-08-21T17:12:24+09:00</dc:date>
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　今日８月２１日は、藤山一郎先生のご命日である。お亡くなりになったのは平成５（１９９３）年のこの日だから、３２年が経過した。<br /><br />　３２年前のことや、今年も公開させていただいている「長崎の鐘・新しき」に関しては近年も複数回綴っているから、今日は藤山先生から賜わった大恩のうち、「明るい歌」について、お話ししたいと思う。<br /><br />　藤山一郎先生のデビュー曲は、昭和６（１９３１）年の「キャンプ小唄」である。つづく「酒は涙か溜息か」、「丘を越えて」が大ヒットし、さらに翌昭和７年には「影を慕いて」も大ヒットして、戦前の不動のスター歌手となられた。ただ、東京音楽学校（現東京藝術大学音楽学部）在学中のアルバイトであったことから、学校当局から大目玉をくらい、停学処分を受けたということも、有名な話である（もちろん本名の増永丈夫でなく藤山一郎の芸名だったが、音楽学校の先生には声でわかってしまった。しかしアルバイトの理由が家業を助けることであり、首席の優秀かつ勤勉な学生であったため、短い期間の、かつ実質的なロスの少ない停学で済んだのだという）。<br /><br />　私が藤山一郎先生の歌をはじめて（テレビを通して）知ったのは、おそらく「青い山脈」だったのだと思われる。昭和４０年代後半（１９７１～７４年ごろ）、ＮＨＫの紅白歌合戦では、いつも最後に藤山先生が１番を歌われ、それから出場歌手全員がステージに集まって２番以降を一緒に歌う、というスタイルが定着していた（のちに「蛍の光」の指揮をなさる形になった。「蛍の光」についてのエピソードは、いつか改めてお話ししたい）。<br /><br />　さて、最初に知ったのは「青い山脈」だが、私が１７、８の頃から昭和前期の流行歌を愛唱するようになって好んだのは、前出の「酒は涙か溜息か」、「影を慕いて」、また「青春日記」などである。これらはみな失恋した青年の心情を歌う、悲しい（今日のテーマとの対比で言えば「暗い」）歌であった。それが当時の自分にもっとも受け入れやすい歌だったからであるが、いっぽう藤山先生が「悲しい歌は明るく歌うものだ」とおっしゃったことについても、いつからか知るところとなっていた。<br /><br />　さらに、藤山一郎先生の本当のすばらしさは、「青い山脈」、「丘を越えて」、「丘は花ざかり」などの明るい歌にこそあるのだということを、先生もみずからおっしゃっていたし（真骨頂は「走れ跳べ投げよ」）、私自身もそのように感じるようになっていた。１９９７年に出版した私家版の歌文集『わが夢わが歌』には、次のように記してある。<br /><br />＜言葉を愛する上において、私は早くから先生の弟子であったことを高言できます。しかし歌の上でのこととしては、少々気持ちが弱くなるのを認めないわけには行きません。それは「青い山脈」のすばらしさを理解するのに、だいぶ時間がかかったからです。先生が亡くなられてからしばらくの間、私はこの歌を口ずさむたびに泣きました。こんなにすばらしい人生の讃歌を、どうして自分は心（しん）から理解していなかったか、これでは不肖の弟子ではないかと、そんな思いがこみ上げて、どうすることもできなかったのです。でも今はちがいます。堂々と胸を張って「青い山脈」が歌えるようになった証として、結婚の誓いの席で使わせていただくことをお許し下さい。＞<br />（『わが夢わが歌』所収、「そして藤山先生へ」１９９７年３月７日脱稿）<br /><br />　今、私は子どもたちに胸を張って、正しく生きること、人生のすばらしさを教えることができる。それは藤山一郎先生のおかげである。自分自身が正しく、明るく生きていてこそ、子どもたちに誇りをもって、それを教えることができるのだ。「青い山脈」、「丘を越えて」、「丘は花ざかり」などの明るい歌が導いてくれた明るい人生、とりわけ藤山先生がお亡くなりになってからの３２年間に感謝をこめて、明るい歌とともにある人生のすばらしさを、お伝えしたい。<br /><br />令和７年８月２１日<br />小田原漂情<br /><br />追記　もちろん「明るい歌」ばかりでなく、藤山先生は、「長崎の鐘」、「新しき」という忘れがたい、こよなく深いものを残して下さいました。永井博士や長崎、広島で亡くなった方々を悼み、藤山先生への感謝をこめて、今後も毎年夏には「長崎の鐘・新しき」の公開をつづけさせていただきます。<br /><br /><a href="https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y</a>　小田原漂情歌「長崎の鐘・新しき」<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol.344 戦後「８０年」を過ぎるにあたって</title>
<description>　８月６日の広島、９日の長崎についての文章でも書いた通り、１９４５（昭和２０）年から、今年で満８０年となった。私自身が強烈に記憶しているのは、半世紀の節目であった「戦後５０年」のことであり、その後の６０年、７０年の時と比べても、探さずに目にする記事、ニュースのたぐいは少ないように感じられる（先日も書いたが、件数の検分などをしたわけではない）。　考えられる理由の一つに、８０年という時間を経て、直接に経験を語れる人が大きく減少しているのであろうことが挙げられる。広島、長崎で直接原..</description>
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<dc:creator>hyojo</dc:creator>
<dc:date>2025-08-15T13:46:01+09:00</dc:date>
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　８月６日の広島、９日の長崎についての文章でも書いた通り、１９４５（昭和２０）年から、今年で満８０年となった。私自身が強烈に記憶しているのは、半世紀の節目であった「戦後５０年」のことであり、その後の６０年、７０年の時と比べても、探さずに目にする記事、ニュースのたぐいは少ないように感じられる（先日も書いたが、件数の検分などをしたわけではない）。<br /><br />　考えられる理由の一つに、８０年という時間を経て、直接に経験を語れる人が大きく減少しているのであろうことが挙げられる。広島、長崎で直接原爆の被害に遭ったいわゆる「被爆者」の平均年齢は８６歳を超え、逆にその総数は１０万人を下回ったのだという。男性８１．０９歳、女性８７.１３歳という平均寿命（２０２４年、ＮＨＫ）から考えても、あの戦争を直接経験した人が相次いで世を去っていかれるのは、避けがたい事実であろう。また、「伝える現場」の責任者クラスの年代の人たちについて、自分の親が戦争経験者でない割合も、年々上昇していくだろう。<br /><br />　私ごとだが、満９３歳の家内の母が、９日夜に他界した。私にとって義母である。身の回りからまた一人、戦中、戦前を知る人が去ってしまったことになる。奇しくも、最期を迎える入院が８月６日、みまかったのが９日、そして通夜が今日、１５日である。そのすべての日付に、私は毎年文章を書き、本欄に掲載しているが、それぞれの日付で文章を書き上げ、掲載できるだけの時間を配分し、与えてくれたような最期であった。<br /><br />　私がこの義母から、直接戦時のことを聞いた機会はあまり多くないのだが、家内を通して、いくつかの生々しい体験を教えられている。また２１年前に他界した義父は、陸軍の歩兵として中国戦線に送られていたことがあった。義父は、義母には話していなかった体験を娘である家内に教えてくれたことがあるなど、家内を経てではあるが、義父母から教えられた「戦争体験」を、私は自分自身の記憶と思惟の中に刻みこんでいるのである（もちろん自分自身の両親や、親族、師や多くの知人、先人たちから教わったことと一体になっている）。<br /><br />　よくある言い方だが、明日からは戦後８１年目であり、１０年ごとの節目でいうなら、戦後９０年、１００年へと向かっていくことになる。直接の経験者が少なくなっていくのは避けられないことであるにしても、その人たちや、あるいは戦争で亡くなった方たちが残した「戦争は絶対にあってはならない」という言葉の重さが薄れていくことは、看過するべきではない。言葉を扱い、また教える立場として、さらには近しい経験者からその思いを受けとった立場の者としても、言葉の上でそのことを伝えつづけ、引き継ぎつづけていかねばならないことを、改めて肝に銘じた、今年の８月１５日である。<br /><br />令和７（２０２５）年８月１５日<br />小田原漂情<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol343. 知りつづけ、知らせつづけることを</title>
<description>　今日は長崎原爆死没者慰霊平和祈念式典のテレビ中継を、石破首相の挨拶まで視聴してから出社した。長崎平和宣言は、鈴木史朗長崎市長が「武力には武力を」の争いを今すぐやめてください、と力強く呼びかけることからはじめられた。参院選中、安易にその内容のことを語っていた議員、候補者は、その言葉を聞いただろうか。　世界各国の為政者はもとより、日本国内の政治家も、多くの人々も、８０年前に何があったかをあまりにも知らないために、「武力には武力を」型の言動を取ることになっているのではないか。自分..</description>
<dc:subject>言問ねこ塾長日記</dc:subject>
<dc:creator>hyojo</dc:creator>
<dc:date>2025-08-09T15:29:16+09:00</dc:date>
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　今日は長崎原爆死没者慰霊平和祈念式典のテレビ中継を、石破首相の挨拶まで視聴してから出社した。長崎平和宣言は、鈴木史朗長崎市長が「武力には武力を」の争いを今すぐやめてください、と力強く呼びかけることからはじめられた。参院選中、安易にその内容のことを語っていた議員、候補者は、その言葉を聞いただろうか。<br /><br />　世界各国の為政者はもとより、日本国内の政治家も、多くの人々も、８０年前に何があったかをあまりにも知らないために、「武力には武力を」型の言動を取ることになっているのではないか。自分は知っているとか、どこまで知っていればいいかというような話ではない。本稿でも以前に述べたことがあるはずだが、現在平均年齢が８６歳を超えたいわゆる「被爆者」、原爆の被害を直接受けた方たちは、偏見と差別にさらされるなどし、被爆体験があることを隠して生きなければならなかったつらい過去を経て、またさらに思い出したくないという強い心の要請をも押さえつけて、原爆が落とされたときに何があったかを語り、伝えつづけて下さって来たのである。<br /><br />　永井隆博士の『この子を残して』の一部を引用させていただきたい。<br /><br />「この子を残して‐この世をやがて私は去らねばならぬのか！<br /><br />母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか？」<br /><br />　ここに書かれている「この子」とは、永井博士の娘さんの茅乃さんで、この頃は小学１年生であろうか。引用した文章直前の冒頭部は、うとうとしていた永井博士のほほに、帰って来た茅乃さんが自分のほほをつけ、「ああ、・・・・・・お父さんのにおい・・・・・」と言ったのだとつづられている（つづけて引用部となる）。<br /><br />　茅乃さんのお母さん、永井博士夫人の緑さんは、原爆投下の際家もろとも焼かれ、お骨も残っておらず、焼け跡からロザリオだけが見つかったのだという。そのお母さんの匂いを忘れたおさな子が、寝ているお父さんにほほを寄せて「ああ、お父さんのにおい」とつぶやいた。しかもそのお父さんも、原爆症のために長くは生きながらえることができない。<br /><br />　こうしたことを、知りつづけ、知らせつづけなければならない。言問学舎でも、わずかな人数の生徒たちにではあるが、毎年『碑』や『音読で育てる読解力　小学５年生以上３』を読み、考えて文章を書く授業をつづけている。子どもたちは、ふだん接する機会がないだけで、機会さえ得れば、まっすぐ受けとめ、考えてくれるのだ。知る機会を得たその子たちが、考えつづけ、知らせつづけて行ってくれるよう働きかけることが、私になしうることである。もちろん私自身も、まだまだ知りつづける努力を怠るわけにいかない。<br /><br />　そして私には、歌いつづける営みもある。藤山一郎先生が与えて下さった「長崎の鐘・新しき」はスタジオで歌い、『音読で育てる読解力　小学５年生以上３』の付属ＤＶＤに収録したほか、毎年期間限定だがYouTubeで動画を公開している（今年は８月３日～９月２日の予定）。そして、それだけではなく、常に歌いつづけることが、原爆死没者の方たちを悼み、平和を希求するために大切なことであると考えている。だから動画を制作したあとも最低週に２度ずつ歌うことを止めていないし、もちろん今日も、出社してから歌わせていただいた。「長崎の鐘」は、永井博士の著書名にちなんで１９４９（昭和２４）年に藤山先生が歌われた流行歌であり（古関裕而作曲、サトウハチロー作詞）、「新しき」は、藤山、古関、サトウのお三方に永井博士が贈られた短歌「新しき朝の光のさしそむる荒れ野にひびけ長崎の鐘」に藤山先生が曲を付けられ、長く歌っていらした名曲である。<br /><br /><a href="https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y</a>　小田原漂情歌　長崎の鐘・新しき<br /><br />　これらの営みを、「なしうること」として、能う限りつづけていくことを、今日は改めて誓った次第である。<br /><br />２０２５（令和７）年８月９日<br />小田原漂情<br /><br />　なお、今日は十数年ぶりに、時の首相の真摯な挨拶を聞いた。６日の広島と合わせ、この点についてのみ、石破茂氏を首相として高く評価して良いと考えた。<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol.342 なしうることをなすのみ&lt;br /&gt;</title>
<description> 「戦後８０年」の報道になるべく目を通しているが、７０年、６０年の時にくらべて、報道の件数は少ないように感じられる（件数を精査したわけではない）。今日の広島の平和記念式典（広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式）で読み上げられた、この１年間で新たに原爆死没者名簿に書き加えられた方の数は４，９４０人、これまでの総数は３４９，２４６人になったという。またこども代表の「平和への誓い」は、「いつかはおとずれる、被爆者のいない世界」という言葉からはじめられた。 「被爆者のいない世界」と..</description>
<dc:subject>言問ねこ塾長日記</dc:subject>
<dc:creator>hyojo</dc:creator>
<dc:date>2025-08-06T23:52:41+09:00</dc:date>
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 「戦後８０年」の報道になるべく目を通しているが、７０年、６０年の時にくらべて、報道の件数は少ないように感じられる（件数を精査したわけではない）。今日の広島の平和記念式典（広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式）で読み上げられた、この１年間で新たに原爆死没者名簿に書き加えられた方の数は４，９４０人、これまでの総数は３４９，２４６人になったという。またこども代表の「平和への誓い」は、「いつかはおとずれる、被爆者のいない世界」という言葉からはじめられた。<br /><br /> 「被爆者のいない世界」とは、核兵器が廃絶されて、今後（戦争で）被爆する人が一切出ない世界のことではあるまい。８０年前に実際に被爆して、生き延びて来られ、原爆の実相を語りつづけて来て下さった、「原爆の被害を直接知る方々」が、お一人も残っていない世界のことを指すのだろう。現在いらっしゃる「被爆者」の平均年齢が８６歳を超えたということだから、たしかにその日がいつかは訪れることを、考える必要は大きいのだと思う。<br /><br />　戦後８０年という歳月を考えれば、「戦後８０年」の報道が少ないと感じられるのも、やがて「被爆者のいない世界」が訪れることも、避けることのできない事実であるようにも思われる。しかし、いっぽうで決してわすれてはならないことがある。今日の広島市の式典のNHKの放送でもっとも心に刺さったのは、２０２１年に他界された坪井直さんの、次のお言葉である。<br /><br />　どんなことがあっても、ネバーギブアップ！<br /><br />　このお言葉とお心とを、私たちはずっと受け継いでいかねばならない。そして、ものごとをまっすぐ、正しく受けとめることのできる子どもたちに、８０年前の広島と長崎で何があったかを、伝えつづけることが肝要である。今年の夏休みは、『つるにのって』を読書感想文に選んだ子が親御さんと折ってくれた鶴と、私自身が去年から折って来た鶴をあわせて、広島市へ送らせていただく。「原爆の子の像」に捧げていただけるということだから、佐々木禎子さんのお心にも、いくばくかはかなうものになるかも知れない。<br /><br />　また、毎年公開する「長崎の鐘・新しき」を、今年も８月３日からYouTubeで公開している。「微力ではあるが無力ではない」、平和を愛し守る意思をあらわす者のつとめとして、ひきつづきなしうることをなすのみである。<br /><br /><a href="https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y" target="_blank">https://www.youtube.com/watch?v=jzNjIy0_21Y</a>　小田原漂情歌「長崎の鐘・新しき」<br /><br />令和７（２０２５）年８月６日<br />小田原漂情<br /><br /><a name="more"></a>

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<title>Vol.341　令和七年、八月の初めに</title>
<description>　先日、中学１年の時に書いた夏休みの旅行の作文のことを取り上げた。振り返ってみると、今から５０年前のことである。また、その時同級生だった親友と、つい２日ほど前、ＳＮＳ上でだが「半世紀の付き合いだね」と喜び合った。　すなわ私は、今言問学舎にいる生徒の中の中学１年生とは５０歳、そして小学生たちはそれ以上、年齢が離れていることになる。ずいぶん前から、年少の子たちは孫のように感じられているし、今でも付き合いのある教え子たちに、３０歳、４０歳若年の人たちもいるのだが、やはり５０歳、半世..</description>
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<dc:creator>hyojo</dc:creator>
<dc:date>2025-08-01T18:05:47+09:00</dc:date>
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　先日、中学１年の時に書いた夏休みの旅行の作文のことを取り上げた。振り返ってみると、今から５０年前のことである。また、その時同級生だった親友と、つい２日ほど前、ＳＮＳ上でだが「半世紀の付き合いだね」と喜び合った。<br /><br />　すなわ私は、今言問学舎にいる生徒の中の中学１年生とは５０歳、そして小学生たちはそれ以上、年齢が離れていることになる。ずいぶん前から、年少の子たちは孫のように感じられているし、今でも付き合いのある教え子たちに、３０歳、４０歳若年の人たちもいるのだが、やはり５０歳、半世紀分年齢が違うということは、大きな節目と感じられる。<br /><br />　もちろん日々、今現在が学齢期である令和の子たちを迎えていて、個人の感慨にふけっているばかりではない。教えるということを考える上で、次のことを根底に据え、教育のあり方を模索しつつ、実践している。<br /><br />　まず例として掲げる、万葉集の１３００年前に歌われている親子の情愛は、現代もまったく変わらぬものであろう。<br /><br />　父母が頭かきなで幸（さ）くあれて言ひし言葉（けとば）ぜ忘れかねつる<br />（防人として旅立つ前、両親が「元気でいろよ」と頭をかき撫でながら言ってくれた言葉が、今も耳の底に残っていて、忘れられない。）<br /><br />　また宇治拾遺物語の「ちごの空寝」の、ぼたもちができたと一度呼ばれてすぐ返事をするのは格好悪いから、二度目に返事をしようと思っていて、機を逸してしまったちご（幼い子）の話が８００年前であるが、あらわしている言葉の形は変わっていても、人の心の動きは現在とまったく変わらないのだ。これは人間の真実、真理であろうし、それを伝えるのが言葉、すなわち国語の力であることも、また疑いのない真理であろう（メール、チャットでも、みな日本語で何かを書いている）。<br /><br />　奇しくも、つい先日中３生女子に、「先生も、昔から今みたいな性格じゃなくて、中学生の頃は同級生の女の子に、うまくあいさつができなかったんだよ」と話すと、間髪入れずに「今の中学生も似たようなものですよ」との返事が返って来た。繰り返すが、言葉の表面上の形や伝達の手段が変わっても、人の心は変わらないのである。<br /><br />　そして、学ぶこと、そのために教えることのどちらにも、形式の面では時とともに変化、進歩があるにしても、その本質は不変であろう。変化、進歩と言えば、私も２２年前に言問学舎を立ち上げた時のままの私ではないし、言問学舎は「真の国語教育」で進化を遂げている。表面的、形骸的な新しさではなく、本質を深く掘り下げた教育の深層において、さらに磨き上げたものを、多くの子どもたちに提供すること、それが言問学舎の今後の方向性であり、使命であると考えた。<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol.340 「何事かを為す」ための責任と覚悟</title>
<description>　２月２６日の本欄「人生を預かるなりわい」でご紹介した中川正壽老師のご大著『中川正壽随想録幷門あまね歌集　山を越え渓を渉る』がいよいよ明日出来となり、版元の飯塚書店さんへ納品される。言問学舎、すなわち私の手もとには、翌２２日火曜日に届く手はずとなっている。　一度ご紹介した話なので、ざっと振り返ってみると、著者である中川老師から航空便でＵＳＢメモリーを拝受したのが昨年８月だった。それより２か月ほどは、ＵＳＢメモリーから原稿を起こし、読みとり、仕分けすることのみに費やした。３か月..</description>
<dc:subject>言問ねこ塾長日記</dc:subject>
<dc:creator>hyojo</dc:creator>
<dc:date>2025-04-21T01:22:49+09:00</dc:date>
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　２月２６日の本欄「人生を預かるなりわい」でご紹介した中川正壽老師のご大著『中川正壽随想録幷門あまね歌集　山を越え渓を渉る』がいよいよ明日出来となり、版元の飯塚書店さんへ納品される。言問学舎、すなわち私の手もとには、翌２２日火曜日に届く手はずとなっている。<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E5B1B1E38292E8B68AE38188_E382ABE38390E383BC2BE382AAE38393.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="山を越え_カバー+オビ.jpg" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E5B1B1E38292E8B68AE38188_E382ABE38390E383BC2BE382AAE38393-thumbnail2.jpg" width="213" height="320"></a><br /><br />　一度ご紹介した話なので、ざっと振り返ってみると、著者である中川老師から航空便でＵＳＢメモリーを拝受したのが昨年８月だった。それより２か月ほどは、ＵＳＢメモリーから原稿を起こし、読みとり、仕分けすることのみに費やした。３か月目から章立てをして作品を割り付けし、さらに本全体の構成を整えて、１１月の下旬に、いつも本づくりでお世話になっているＳさんにお願いして、飯塚書店の飯塚社長にお引き合わせいただいたのだった。<br /><br />　年末になる前に、著者と打ち合わせ済みの原稿を飯塚書店さんに送稿し、実際の本づくりが動き出したが、想定外の苦労が始まったのは初校の校正刷りが出たあとだった。著者に校正刷りを送るのに、いろいろ下調べして検討した上で、ヤマト運輸の国際宅急便を利用したのだが（お恥ずかしい話だが、海外へ荷物を送るのははじめてだった）、最初の初校の便は到着までに１０日もかかったのである。しかも途中、インドのベンガルール（旧名バンガロール）で５日間も止められていた。<br /><br />　本づくりにおいては、版元と著者との間で二度ないし三度は校正のやりとりを必要とする。今回は版元と著者の間に私が入っており、私が構成に責任を持つポジションだったから、ドイツとの校正刷りのやりとりは初校、再校までとさせていただいたが（その後さらに２回、私と版元との間では校正を繰り返した）、ドイツとの航空便の行き来に、片道１週間～１０日を要したため、１か月超の時間が校正刷りの往来のためだけに費やされたのである。そして送稿以来４か月を経て、ようやく本の出来を迎えることとなった。本をつくる時はいつもそうだが、とりわけ今回は校正刷りの送付・受け取りに神経を使ったため、出来の喜びにも格別のものがある。<br /><br />　いっぽう、「ひろく一般のみなさまへ」でお知らせしている通り、言問学舎の「真の国語」の出版物として、現在『スーパー読解「山月記」』の制作をすすめている。１８日金曜日には、横浜の元町幼稚園まで、「山月記」文学碑の見学・撮影に赴いた。中島敦の名作『山月記』には私も高校２年の時に出会って魂を揺さぶられ、言問学舎をはじめてからは毎年のように高校２年生の生徒たちに指導して、深く親しんできたが、中島敦のことを改めて学ぶためにまず神奈川近代文学館に行き、さらに『中島敦研究』（筑摩書房、１９７８年）を購入して諸氏の研究を読んでいると、虎になってしまった李徴の慟哭が、中島敦その人の心の内奥からしぼり出されたものであったかとも受けとめられ、感じ入るところがある。私の年代からすると、中島敦という作家は高くそびえる孤高の大家であるように思われていたのだが（文学的な位置はその通りであると今も考えるが）、３３歳で没した彼はその当時まだ「新人」であり、「道半ば」に至るよりもっと早く夭折した、薄倖の作家であったのだと再認識させられる。<br /><br />　「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」とは、「山月記」の中で虎になった李徴が「口先」で「弄(ろう)し」ていたとする「警句」だが、昨年から今年にかけて、ただいま述べたような仕事を手がけてきて、「何事かを為す」ことのできる幸いとおそれとを、こもごも感じている。そして、「山月記」を若い人たちにより深く知らしめ手渡そうとする「何事か」のための重い責任を、それを果たす覚悟とともに負わなければならないと、己を戒める次第である。<br /><br /><a href="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E5B1B1E69C88E8A898E69687E5ADA6E7A291E381A8E29E80.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="山月記文学碑と➀.JPG" src="http://kotogaku.sakura.ne.jp/sblo_files/kotogakublog1/image/E5B1B1E69C88E8A898E69687E5ADA6E7A291E381A8E29E80-thumbnail2.JPG" width="240" height="320"></a><br /><br />★『スーパー読解「山月記」』は６月１９日（木）より言問学舎店頭で、２０日（金）ごろから書店注文・ネット注文が可能になります。ジュンク堂書店、紀伊国屋書店、三省堂書店は一部店舗に配本されますので、注文対応も速いと思われます。<br /><a name="more"></a>

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<title>Vol. 339 人生を預かるなりわい</title>
<description>　昨年夏から、やや異色の本の編集に携わって来た。４５年前に単身ドイツへ渡られ、爾来お一人で、彼の地にあって禅を広めて来られた僧侶の方の、随想録と短歌・長歌をまとめた本である。書名を『中川正壽随想録幷（ならびに）門あまね歌集　山を越え渓を渉る』という。中川正壽が老師の僧侶としてのお名前であり、門あまねが歌人としての筆名である。 　編集に携わって来た、というのは、この本は言問学舎からの刊行ではなく、茗荷谷にあって歌集・歌書や句集・俳書をたくさん出版なさっている飯塚書店さんから出し..</description>
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　昨年夏から、やや異色の本の編集に携わって来た。４５年前に単身ドイツへ渡られ、爾来お一人で、彼の地にあって禅を広めて来られた僧侶の方の、随想録と短歌・長歌をまとめた本である。書名を『中川正壽随想録幷（ならびに）門あまね歌集　山を越え渓を渉る』という。中川正壽が老師の僧侶としてのお名前であり、門あまねが歌人としての筆名である。<br /> <br />　編集に携わって来た、というのは、この本は言問学舎からの刊行ではなく、茗荷谷にあって歌集・歌書や句集・俳書をたくさん出版なさっている飯塚書店さんから出していただくからである。本の制作時期がちょうど受験期と重なることも理由の一つだが、中川老師の大著をできるだけ多くの方に読んでいただくため、歴史のある版元からの出版の方が望ましいだろうと判断したことの方が、より大きな理由であると言える。ドイツへの校正刷りの送付（とその往復）に事前想定より時間がかかっているが、桜の時期と前後する頃には、本の出来（しゅったい）をご報告することができるかと思う。<br /> <br />　中川老師の大著、と書いたが、老師は私より十五歳年長であられ、ヨーロッパにおける曹洞宗海外寺院たるアイゼンブッフ禅センター・大悲山普門寺を司る（創建され、経営なさっている）方である。たまたま老師の方から、私が家内と二人で立ち上げ、運営している文学サイト「美（うま）し言の葉」に短歌・長歌の添削を希望して来られたというご縁があったため、私が全面的に編集をお引き受けし、知人を介して飯塚書店さんに取り次いだ経緯があるが、『山を越え渓を渉る』の作品全篇を読んでいると、老師の七十七年のご生涯に深く親しみ、本づくりの上ではあたかもそのご生涯をお預かりしたように思われる。<br /> <br />　と同時に、私ごときが老師の「人生をお預かりする」などと言うと語弊があり、畏れ多いことなのだが、渾身の原稿に真向かい、それを一冊のまとまりある本に組み上げるということは、まさに著者の全人格と対峙する、真剣勝負の仕事なのだということを、再校まで（ほぼ）終えた段階で、如実に感じている次第である。<br /> <br />　もとより私は、言問学舎で多くのお子さんたちをお預かりしており、つねづねそれは子どもたちの人生を預かることなのだと任じている。受験が人生の進路の大きな部分を左右することももちろんだが、それ以上に、受験、そして勉強と向き合うあり方が人生の土台をつくり、さらに国語の力がその子の一生の力になるという立場から、一人一人の子たちの人生と密接なかかわりを持っているという自覚によるものだ。<br /><br />　自分自身が人様の人生をお預かりする（注：その面がある、ということだ）に足る人間であるのか否かということを、問わないわけではない。むしろその自問は、私自身の生命のあり方自体の、不断にして永遠の問いであるだろう。生涯をかけてその問いと向き合い、答えをさがしつづけることを誓って、みなさまのご判断に俟つほかはない。『山を越え渓を渉る』と向き合った半年間が、私にその覚悟を与えてくれた。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　了<br /><br />付：アイゼンブッフへゲラを送りし際に詠める歌３首<br /><br />　ドイツへと荷を送るゆゑ二日三日調べあげたる国際宅急便<br /><br />　アルプスを見はるかす寺の小路より歌はあふれて大冊をなす<br /><br />　ケルンよりフランクフルトへ至れどもミュンヘンとほし師の寺はなほ<br /><br /><br />令和７年２月２６日<br />小田原漂情<br /><a name="more"></a>

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